指揮者のために。「さとしは、ゆりの花」の調べに合わせて。教えのためのダビデのミクタム。ダビデはアラム・ナハライムやアラム・ツォバと戦っていたとき、ヨアブが帰って来て、塩の谷でエドムを一万二千人打ち殺したときに
1 神よ。あなたは私たちを拒み、私たちを破り、怒って、私たちから顔をそむけられました。
2 あなたは地をゆるがせ、それを引き裂かれました。その裂け目を、いやしてください。地がぐらついているのです。
3 あなたは、御民に苦難をなめさせられました。よろめかす酒を、私たちに飲ませられました。
4 あなたは、あなたを恐れる者のために旗を授けられました。それは、弓にかえて、これをひらめかせるためです。セラ
5 あなたの愛する者が助け出されるために、あなたの右の手で救ってください。そして私に答えてください。
6 神は聖所から告げられた。「わたしは、喜び勇んで、シェケムを分割し、スコテの谷を配分しよう。
7 ギルアデはわたしのもの。マナセもわたしのもの。エフライムもまた、わたしの頭のかぶと。ユダはわたしの杖。
8 モアブはわたしの足を洗うたらい。エドムの上に、わたしのはきものを投げつけよう。ペリシテよ。わたしのゆえに大声で叫べ。」
9 だれが私を防備の町に連れて行くでしょう。だれが私をエドムまで導くでしょう。
10 神よ。あなたご自身が私たちを拒まれたのではありませんか。神よ。あなたは、もはや私たちの軍勢とともに、出陣なさらないのですか。
11 どうか、敵から私たちを助けてください。まことに、人の救いはむなしいものです。
12 神によって、私たちは力ある働きをします。神こそ、私たちの敵を踏みつけられる方です。
状況は、ダビデがシリアとの戦いで勝利をおさめた直後にエドムの来襲があった。
ダビデはこれに勝利はしたが、立て続けに起こった戦いの後に歌われたもの、と言えるかと思う。
ダビデは嘆きの歌を歌うのだが、状況はと言えば、シリアを倒して急襲のエドムにも勝利した後ということだから、なぜ嘆いているのか、よくわからないところがある。
もしかすると、間髪入れずに発生した戦いに、一種の絶望を覚えたのだろうか。ダビデの本当に心境はわからない。
いずれにしても、この歌でダビデが行き着いているところは、神が共に戦われる、という確信であり願いとも言える部分だ。
そうしなければ勝てないということをダビデはよくわかっていた、これが大事なところではと思う。
正直言うと私は、ダビデの”勘違いの歌”だと思えた。私が間違っている可能性はかなり高いが。
今回、本当に詩編を深く味わいながら、神を更に知る機会となっていると同時に、ダビデの人間性を垣間見る機会にもなっている。
というのは、なんでもかんでも神に寄っていく、いや拠っていくのがダビデで、物事の判断とか選別において、これは神、あれは私、というような考えはせず、詩編に出てくる歌の状況については、主よこれは何なんですか、主よ助けてください、主よ感謝します、結局全部これなのだ。
ダビデは完璧なのかと言えば、そんなことはないはずで、この60編の嘆きにしても、主よこれは何なんですか、か、どうして見捨てられるのですか、というところだが、それよりも以前に、ダビデの”何でもかんでも神”、に該当していると思うのだ。
実際、神は見捨てておられない。突如として現れたエドムという敵を退けられているのだから。
何でもかんでも神、というダビデの性質の中では、「これは間違っているから祈らずにいよう」とか、そういうものは無い。
自分に湧き出てきた思い全てを神にぶつけていくことが、彼のポリシーなのだ。
神は答えで教えてくださるだろう、という信頼。
時に辛辣な答えも覚悟しなければならないのだが、それも含めての信頼である。
ダビデが自分のことを「あなたの愛する者」としているところに、それがよく表れていると思った。