指揮者のために。「滅ぼすな」の調べに合わせて。ダビデのミクタム
1 力ある者よ。ほんとうに、おまえたちは義を語り、人の子らを公正にさばくのか。
2 いや、心では不正を働き、地上では、おまえたちの手の暴虐を、はびこらせている。
3 悪者どもは、母の胎を出たときから、踏み迷い、偽りを言う者どもは生まれたときからさまよっている。
4 彼らは蛇の毒のような毒を持ち、耳をふさぐ、耳の聞こえないコブラのよう。
5 これは、蛇使いの声も、巧みに呪文を唱える者の声も、聞こうとしない。
6 神よ。彼らの歯を、その口の中で折ってください。主よ。若獅子のきばを、打ち砕いてください。
7 彼らを、流れて行く水のように消え去らせてください。彼が矢を放つときは、それを折れた矢のようにしてください。
8 彼らを、溶けて、消えていくかたつむりのように、また、日の目を見ない、死産の子のようにしてください。
9 おまえたちの釜が、いばらの火を感じる前に、神は、生のものも、燃えているものも、ひとしくつむじ風で吹き払われる。
10 正しい者は、復讐を見て喜び、その足を、悪者の地で洗おう。
11 こうして人々は言おう。「まことに、正しい者には報いがある。まことに、さばく神が、地におられる。」
昨今、メディアを賑わす話題として、自民党の裏金問題がある。
パーティー券収入の一部を政治資金として帳簿記載せず、現金をストックして裏金化した、というものだ。
世論が誘導でもされているのか、政治資金として帳簿記載しなかったことが「ルール違反だろう」ということで叩かれているのだが、それはルールの話。
この問題の悪は、なぜ裏金にする必要があったのか、ということにあると思っている。何に使ったのか、で、その金はどうするのか、ということだ。
政治資金に使ったという口先の釈明だけで、事の真相をはっきりとさせないまま、党内処分で幕切れとするようだが、個人的には全く納得いかない。
今日の58編からは、この事件を思い出したのだが、ダビデが置かれた状況は私のような庶民目線とは全くかけ離れるが、やはり権力を持つ者=さばく者の不正に対する怒りである。
ただ、ダビデは王権を授かった王であり、権力と言う点では絶対的であるのに、どうしてこんな祈りとか叫びになっているのか庶民のように、と、私には少々不可解な思いがあった。問題があるなら、処罰すればよいのにな、ということだ。
そういう思いの中で、気づかされるのは、サウルに対する処遇だ。
神から王位をはく奪されたもな権力に居座り、ダビデに対して理不尽な怒りを燃やして命をつけ狙うサウル。
彼に対してダビデは、あくまで「神が一度は油注いだ者なのだから」ということで、殺害を踏みとどまり続けた。
更に”そう言えば”なのだが、新約聖書では信徒に対する教えとして、国家などこの世の権力には従うようにと促している。
それは、その権力は神が授けられているものだから、ということだ。
更に更に、イスラエルはソロモン時代を最盛期とした後、ついに新バビロニアに滅ぼされるという悲惨な歴史を刻むことになるのだが、聖書はそれが神の御心であったことを語っている。つまり、異教である新バビロニアの時の王ネブカドネツァルにイスラエル制圧する権力を与えられたということだ。
世の権力にあらわれるものというのは、その権力者のアイデンティティそのものであるように見えてしまうものだが、実は神の御心、ご計画のために権力をコントロールされているということ、という風に読める。
そういう前提をしてダビデのこの祈りを読むと、ダビデが如何に神の御心に沿うことに躍起になっていたのか、その上で、悪の本質を訴えていたのかが見えてくる。
このような者でも神が与えられた権力なのであるからと尊重しながらも(処刑してしまわずに)、この口を封じて権力を無能化してください、消え去らせてくださいと嘆願するのだ。
このダビデの祈りに神の御心はあるのかな、と言う風にも思った。
今日のみことばから得られるものは、権力に従うという戦い方、だ。
自民党の裏金問題は頭に来ることがあるが、だからと言って横暴な考えに支配されてしまうのではなく、処罰は神に委ねながら、御心が成されるようにと祈ることだ。
裏金問題と言わずとも、社会生活の中では色々な義憤のようなこと(それ自分で言うのはちょっと嫌だが)も起こる。
そんな時こそ、権力に従うことを実践しながら復讐を期したい。