指揮者のために。「遠くの人の、もの言わぬ鳩」の調べに合わせて。ダビデのミクタム。ペリシテ人がダビデを捕らえたときに
1 神よ。私をあわれんでください。人が私を踏みつけ、一日中、戦って、私をしいたげます。
2 私の敵は、一日中、私を踏みつけています。誇らしげに私に戦いをいどんでいる者が、多くいます。
3 恐れのある日に、私は、あなたに信頼します。
4 神にあって、私はみことばを、ほめたたえます。私は神に信頼し、何も恐れません。肉なる者が、私に何をなしえましょう。
5 一日中、彼らは私のことばを痛めつけています。彼らの思い計ることはみな、私にわざわいを加えることです。
6 彼らは襲い、彼らは待ち伏せ、私のあとをつけています。私のいのちをねらっているように。
7 神よ。彼らの不法のゆえに、彼らを投げつけてください。御怒りをもって、国々の民を打ち倒してください。
8 あなたは、私のさすらいをしるしておられます。どうか私の涙を、あなたの皮袋にたくわえてください。それはあなたの書には、ないのでしょうか。
9 それで、私が呼ばわる日に、私の敵は退きます。神が私の味方であることを私は知っています。
10 神にあっては、私はみことばをほめたたえます。主にあって、私はみことばをほめたたえます。
11 私は、神に信頼しています。それゆえ、恐れません。人が、私に何をなしえましょう。
12 神よ。あなたへの誓いは、私の上にあります。私は、感謝のいけにえを、あなたにささげます。
13 あなたは、私のいのちを死から、まことに私の足をつまづきから、救い出してくださいました。それは、私が、いのちの光のうちに、神の御前を歩むためでした。
もの言わぬ鳩、と冒頭にあるが、これはダビデ自身を指したものだろう。
以前住んでいたマンションにバルコニーには、朝になると必ず鳩がやってきた。
鳩はクークーやかましい。実は鳩はものいうやつらなのだ。
朝からやかましから、追い払ってもまたやってくる。それで、鳩駆除を専門に扱っている業者に相談したのだが、鳩がいかにアホかを教えてくれた。
結局、色々あって駆除はお願いしなかったが、鳩の学習能力の無さを学習した。
平和の象徴と言われることもある鳩だが、あの間抜けな顔は、平和ではなく何も考えていないのだと、今も思っている。
キングダビデは、自らをその鳩と例えるのか。そういう視点を得た上で深く読んでみた。
この歌は、ペリシテ人に捕らえられた時とあるが、それは確か、サウルからの逃亡の中で、ダビデがある種の選択によって彼らに捕まったことであったはずだ。サウルから身を守るために。
霊の人であるダビデにとって、異邦のペリシテ人に捕らえられることは、苦しみそのものであることが想像出来る。
毒を以て毒を制す、と言うと的外れではあるが、状況はそのようなものと言えるだろう。
しかし、そのような苦しみを神に訴えながら、やはりここでも神にある平安を得て、さらに強い信仰が引き出されていることがこの編でもよくわかる。
さて、安直に”ダビデは鳩だ”という視点をもってこの状況を俯瞰すると、ああそういうことか、という気分になった。
1コリントでパウロが記した
「もしあなたがたの中で、自分は今の世の知者だと思う者がいたら、知者になるために愚かになりなさい。なぜなら、この世の知恵は、神の御前では愚かだからです。」
知者になるために愚かになる。Be fool in Christだったか、そういう題目を掲げられたリトリートに参加したことがあって心に刺さったものだ。
ダビデの状況をして、色々と解釈したり思いを巡らせることが出来るが、私はやはり”ダビデはアホな鳩”として受け取り、それがよいのだ、という神のメッセージを感じる。
いくら追い払ってもやってくるあのアホな鳩のように、神様助けて下さいまし、神様助けて下さいまし、神様助けて下さいまし、と、何度も性懲りもなく神の前にやってくる。そしてそのたびに、心がまずは救われて感謝する、賛美する。
もう何回も神様は助けて下さったしこれは自分でなんとかしよう、とか、そんな知性などは全く不要で、ただ無尽蔵でオールマイティな神の力に頼ること。
それでよいのだと神が言われるようだ。
ちょっと前は鹿のようでありながら、今度は鳩かということになるのだが、私はそんな鳩でありたいと心から思わせてくれるものだ。