指揮者のために。弦楽器に合わせて。ダビデのマスキール。ジフの人たちが来て、「ダビデはわれらの所に隠れているではないか」とサウルに言ったとき

1 神よ。御名によって、私をお救いください。あなたの権威によって、私を弁護してください。

2 神よ。私の祈りを聞いてください。私の口のことばに、耳を傾けてください。

3 見知らぬ者たちが、私に立ち向かい、横暴な者たちが私のいのちを求めます。彼らは自分の前に神を置いていないからです。セラ

4 まことに、神は私を助ける方、主は私のいのちをささえる方です。

5 神は、私を待ち伏せている者どもにわざわいを報いられます。あなたの真実をもって、彼らを滅ぼしてください

6 私は、進んでささげるささげ物をもって、あなたにいけにえをささげます。主よ。いつくしみ深いあなたの御名に感謝します

7 神は、すべての苦難から私を救い出し、私の目が私の敵をながめるようになったからです。

 

以前誰かが言っていた。

詩篇を音読していると、それが賛美であり、祈りであることがわかってくる、と。

今日の箇所からも、そのことはよくわかる気がする。

 

ダビデは、サウルに追われて危機に直面するが、まさにその時に祈りということだろう。

 

一つ、大事なことを教えられる。

それは、御名とは権威であるということだ。

 

私はイエスの御名によって祈るが、誰かから悪霊を去らせる時、そういう祈りの時にもイエスの御名を宣言する。

つまり、御名、お名前とは、大変に強力な力であり、それそのものが全てのものを支配して治める神の権威であることがわかる。

えらいものを掲げて私は祈っとるわけだ。

 

ダビデのその支配者の権威による祈りで、しまいにはサウルから守られることの悟りに至ったと歌うのだ。

神がその権威、途轍もないお力によって自分が守られることを確信したということだ。

まことに・・・からはじまる詩句は、祈りの中でダビデが弱い者から強い者へと変貌した感すらある。このことは、祈る信仰者なら体験したことがあるのではないか。私はある。

 

ダビデは祈りによって確かに平安に至ったようだが、これはセラピーによる心の癒しなのか。それとも単なる気休めなのか。

 

サウルからのこの祈りによって追われることが終了したのかと言えばそうではないのだから、そのように捉えることも出来なくはない。祈りとは神の力を感じて落ち着く効果があるのだ、と。

 

しかし事実、結局ダビデはサウル軍から守られたのだ。

ダビデの祈りから、神の御名、権威によって力働かせてくださって、しっかりと守られているのだから、祈りはセラピーでも心の癒しでも気休めでもないのだ。

 

神の力に頼るとはそういうことだと気づかせてくれる歌だ。

そして、やはり大事なことは感謝なんだな、とも思う。

 

今日のみことばからは、口グセの如く口にしがちな「イエスさまの御名によって祈ります」「御名を賛美します」「御名をほめたたえます」など、御名に係る祈りのことばを、もっと大事に、もっと強く、もっと現実的に捉えて発せよと言われている気がした。

 

その力、御名に頼って生きることが、救われた者の生き方と言えるだろう。

もっと頼れと言われるわけだ。養われよとまで。神の愛に留まるということでもあろう。

 

イエスが来てくださるまで、まだもうちょっとかかると思う。よく言われるところの艱難時代がそのサインとされるのだが、それには近づいている感じはある。

目下の興味は、反キリストと呼ばれる国か権力者とイスラエルの7年契約。これがどのように成就するかだ。

 

だがしかし、そういうウォッチよりもはるかに大事なのは、御名に頼れ、という一種の”時代意識”だと気づかされる。今は、教会時代であり、御名に頼る時代なのだ。

来られれば、それは終わる。御名ではない、神の直接支配がはじまるのだから。

 

今は主の御名による祈りで、いつも心を落ち着かされながら生きて行こう、そういう勇気とか安堵が与えらえる歌だった。