指揮者のために。「マハラテ」の調べに合わせて。ダビデのマスキール

1 愚か者は心の中で、「神はいない」と言っている。彼らは腐っており、忌まわしい不正を行っている。善を行う者はいない

2 神は天から人の子らを見おろして、神を尋ね求める、悟りのある者がいるかどうかをご覧になった。

3 彼らはみな、そむき去り、だれもかれも腐り果てている善を行う者はいない。ひとりもいない。

4 不法を行う者らは知らないのか。彼らはパンを食らうように、わたしの民を食らい、神を呼び求めようとはしない

5 見よ。彼らが恐れのないところで、いかに恐れたかを。それは神が、あなたに対して陣を張る者の骨をまき散らされたからだ。あなたは彼らをはずかしめた。それは神が彼らを捨てられたからだ。

6 ああ、イスラエルの救いがシオンから来るように。神が御民の繁栄を元どおりにされるとき、ヤコブは楽しめ。イスラエルは喜べ。

 

私は進化論否定派であり、創造論を肯定している。

しかし、クリスチャンを自称しながらも、しばらくは進化論で生きていた時期がある。

それは、そもそも進化論か創造論かの葛藤が心に無い時期で、意識すら無かった。

そんなことはどっちでもよい時期とも言えたように思う。

 

時々耳にする。こんな兄弟たちは実際にいるのだ。

神の創造なんてものは信じていない、人は猿から進化して人になった。しかしイエスは信じる、という主義か思想か。私はそれを信仰だとは思わない。

神がアダムを創造していないなら、救われる必要がそもそも無い。

性欲や食欲に溺れて好きに生きることが、長い目で見れば動物の進化に貢献することじゃないか、とすら思う。

 

どのようにして自分が進化論の呪縛から解かれたのかと言うと、自分が福音伝道をするようになってからだ。

伝道ミニストリーに参加して、20週間ほどのトレーニングを受けたのだが、福音の体系的理解と伝道の練習と実践がその中身になる。

私の場合はこのプログラムの中で、逆算的に、神が創られたのだということをまずは理解し、だから素晴らしいのか、だから救われているのか、だから預言されるのかなどなど、あらゆるものが”目からうろこ”になってボロボロと落ちて行ったのだ。

 

そしてその目で創世記1章から聖書を読むと、これは確かに事実だと受け取ることが出来るようになっていった、のだと思う。

正直、これをちゃんと説明しろと言われたらどうすればよいのかわからないのだけれど、身体的でも精神的でもなく、人にある本質的なセンスとしての霊的な渇きに対する満たしとか祝福によると思っている。つまり、これも神のめぐみなのだと感謝すべきものなのだ。

私からの自発的な行動は、歩くべき方向にしっかり真っすぐに向いただけ、なのだ。

 

もしも教訓として捉えるなら、学び始めるためには教え始める必要があるということだ。神を学び始めるには、神を教える、つまり伝えることを始めるのが最も効果的であるということは確かに体感している。伝道は、信仰の肥やしになる。

 

さて、幸いにしてそのような信じる一分子になれたのは良かったが、世は相変わらず進化論が当然とされている。

もし私が、進化論の否定だけを辻説法で語り続けたら、頭がおかしいやつ扱いされるだろう間違いなく。それほど、この日本では進化論こそが常識であり正義なのだ。

 

神は日本だけを見降ろされたわけではないだろうが、預言にある通り、人の世はますます進化論を当然とする方向で真っすぐに動いており、それを聖書は反キリストとか神への背きと言い、罪としているのだ。

だから、この詩編で歌われるように、善を行うものはいない、神を呼び求めようとしない、だれもかれも腐りはじめている、のである。

 

この53編を私は預言として受け取ったが、やがて神ご自身がその存在を示される時がやってきて、その時になって世に神への恐れが生じるようになるようだ。

 

20世紀の終盤にかけて、ちょうど私が十代の頃は、お茶の間で世紀末論争みたいなものが巻き起こっていた。核戦争で世界は破滅するとか、それはハルマゲドンだとか、聖書の要素が部分的に用いられたそんなエンターテインメント題材が流行ったものだ。

それは、恐ろしい時代の到来を意味していた。マンガ「北斗の拳」なんかは1990年代を時代背景としていたものだが、ああいう時代になるのかなあ、なんてことを子供ながらに想像した。全くならなかったが。

 

まさにそれはただのエンターテインメントであったことが今ではわかるということだが、聖書が本当に語っているところは、そういう感性で読むと=進化論肯定で読むなら、とんでもなく恐ろしい時代ということになる。

 

しかし、私はそこに向かって生きているんだと毎日思っている。

そしてそれは、待ち望んでいるものだ。一日でも早く来て欲しいと思っている。

ただし、世には流れが起きているのであり、いつでもそれに足を取られる危険性があることは自覚しておくべきだろう。