指揮者のために。ダビデのマスキール。エドム人ドエグがサウルのもとに来て、彼に告げて「ダビデがアヒメレクの家に来た」と言ったときに
1 なぜ、おまえは悪を誇るのか。勇士よ。神の恵みは、いつも、あるのだ。
2 欺く者よ。おまえの舌は破滅を図っている。さながら鋭い刃物のようだ。
3 おまえは、善よりも悪を、義を語るよりも偽りを愛している。セラ
4 欺きの舌よ。おまえはあらゆるごまかしのことばを愛している。
5 それゆえ、神はおまえを全く打ち砕き、打ち倒し、おまえを幕屋から引き抜かれる。
6 正しい者らは見て、恐れ、彼を笑う。
7 「見よ。彼こそは、神を力とせず、おのれの豊かな富にたより、おのれの悪に強がる。」
8 しかし、この私は、神の家にあるおい茂るオリーブの木のようだ。私は、世々限りなく、神の恵みに拠り頼む。
9 私は、とこしえまでも、あなたに感謝します。あなたが、こうしてくださったのですから。私はあなたの聖徒たちの前で、いつくしみ深いあなたの御名を待ち望みます。
ドエグというのは聞いたことがあったが、どんなだったかなと思って調べたら、彼はサウルの手下で、ダビデが祭司アヒメレクのところに逃げて来たところを見つけて、サウルに密告したあれだった。
後に祭司らがダビデに組したということで大量処刑したその張本人だ。
この52編で語られるのはドエグの悪辣さであるが、ここにはサウルも含まれている気もする。
イスラエルのリーダーは、サムエルまでの霊的リーダーから、国政リーダーたるサウル王へと移った。これは、イスラエルの民が求めて、神は良しとはされないながら、サウルを任命して王とされたものだ。
サムエルまでの時代は、まさに幕屋こそ政の場所であったものが、言わば偽物の信仰によって取って付けたような宗教儀式をやったに過ぎなかったサウルのことを、背きを理由に、神は王の任務から解く。
私はこのサウルから、幕屋を追い出された者の姿を見るように思うのだ。
それでもサウルは王という地位にすがりついた。形骸信仰から形骸執政へ。
善よりも悪を、義を語るより偽りを愛する者の姿だ。
この姿を、”神を力とせずおのれの豊かな富に頼った”と表現している。
なんとまさに、現代常識的であり私にもある部分ではないか、と戒められる。
よく祈りの中で「助けてください」と言う言葉を使うのだが、これ、気をつけないとなあ、と思った。
私はとにかく頑張るんですけど、足りない部分は補ってください、というような中途半端なものではいけないなあと。
私の信仰を助けてください。もっと神を信じ、自らは砕かれて、全てを委ねることが出来るように助けていただく、というのが本質になってくるかと思う。
最後に歌われるように、ダビデの態度はやはり感謝なのだ。
そして、共に信じる者たちと共に、次に来られる時を待つ。つまりこれは、教会ということではないか。あの五旬節の日、聖霊の風が吹いたあの信じる者の姿。このような態度が、生き方とかこの世を生きる態度にあらわれるのだなあ、と教えられる。
「神様を信じています」という言葉は、世には弱弱しく思われる言葉かも知れない。
しかし、そこから神の力は溢れ出しているということを、ダビデにまつわる史実が証明している。
そう言えば、どこぞの国の大統領閣下は、核戦争の準備は万端だと悪を誇っていたなあ。あれもまた、悪を誇る者の態度かも知れない。