13 これが愚か者どもの道、彼らに従い、彼らの言うことを受け入れる者どもの道である。セラ
14 彼らは羊のようによみに定められ、死が彼らの羊飼いとなる。朝は、直ぐな者が彼らを支配する。彼らのかたちはなくなり、よみがその住む所となる。
15 しかし神は私のたましいをよみの手から買い戻される。神が私を受け入れてくださるからだ。セラ
16 恐れるな。人が富を得ても、その人の家の栄誉が増し加わっても。
17 人は、死ぬとき、何一つ持って行くことができず、その栄誉も彼に従って下っては行かないのだ。
18 彼が生きている間、自分を祝福できても、また、あなたが幸いな暮らしをしているために、人々があなたをほめたたえても。
19 あなたは、自分の先祖の世代に行き、彼らは決して光を見ないであろう。
20 人はその栄華の中にあっても、悟りがなければ、滅びうせる獣に等しい。
詩的な表現なのかも知れないが、ダビデでも、世に生きる者として元々は、死の支配にあったことを告白しているように思えた。
しかし今は、神が受け入れる者=買い戻された者だと信仰を歌うのは、それほどこれが歌われた時の状況が辛いものであったからなのか。
自分が信仰者だということと、神に受け入れられた者だということを、自分自身に言い聞かせているような心象風景を感じ取ることが出来る。
人が富を得ても恐れるな。
すごくわかる気がする。
自分自身はほとんど投稿したこともないが、インスタのアカウントを持っている。
学生時代の馴染みである部活の仲間らをフォローしたりしているのだが、学生の頃から30年程も経過した今、暮らしっぷりは色々だ。
ある同期は「今日は娘が高校を卒業した」とかで、いつの間にやらこんなに大きくなって・・・みたいな事を投稿。
ある後輩は「新しい車が来ました」とかで、高額な車を投稿。
ある先輩は「畑仕事はじめました」とかで、野良仕事スタイルを披露。
まあ、だいたいのことが、わずかな自慢を含む投稿が多く、見せびらかしなのはわかっているのだが、私はこういう投稿を見て、本当に自分の性格が嫌になるのだが、全く「よかったね」とか「いいね」なんて思わないのに”いいね”するのだ。
それは、「羨ましいなあ」が、自分のインサイト域に確かにあって、別に見たくないわ、という感情が溢れ出して来ながらも、余裕を装う”いいね”なのかも知れない。
私自身の生活は、相対的贅沢レベル、みたいなものを点数を付けるとするなら、5点中4~4.5点はいっていると思う。なんと贅沢なことか。
しかし、うちには子供はいないし、そこまで金持ちというわけでもないし、生活感がない生活だし、平日は仕事、土日は教会関連でレジャーを楽しむ時間もない。
ダビデとは全くレベルの違う話なのだが、世をみつめるという客観性は、私に渇きを与えて”ないないづくし”の心をもたらしてしまうのだ。
本当は、十分にある、満ち足りているのに、だ。
私には、ダビデが神に目を向けたい、神への信頼をますます強めたいという思いが根底にある歌である気がしてならない。
そして確かに、世に目を向けて生き方とか暮らしっぷりを相対的に評価するのではなく、神の方を向くなら、そこには感謝があるし、自分がどれほども愛されているかという満たしを覚えることが出来る。
ダビデの心の状態は、もしかしたら全く違うものであったかも知れないが、神のメッセージとして私は、そう受け取った。
よみに帰りたいのか、世を見るな、こっち向け、と。