歌。コラの子たちの賛歌
1 主は大いなる方。大いにほめたたえられるべき方。その聖なる山、われらの神の都において。
2 高嶺の麗しさは、全地の喜び。北の端なるシオンの山は大王の都。
3 神は、その宮殿で、ご自身をやぐらとして示された。
4 見よ。王たちは相つどい、ともどもにそれを通り過ぎた。
5 彼らは、見るとたちまち驚き、おじ惑って急いで逃げた。
6 その場で恐怖が彼らを捕らえた。産婦のような苦痛。
7 あなたは東風でタルシシュの船を打ち砕かれる。
8 私達は、聞いたとおりを、そのまま見た。万軍の主の都、われらの神の都で。神は都を、とこしえに堅く建てられる。セラ
9 神よ。私たちは、あなたの宮の中で、あなたの恵みを思い巡らしました。
10 神よ。あなたの誉れはあなたの御名と同じく、地の果てにまで及んでいます。あなたの右の手は義に満ちています。
11 あなたのさばきがあるために、シオンの山が喜び、ユダの娘が楽しむようにしてください。
12 シオンを巡り、その回りを歩け。そのやぐらを数えよ。
13 その城壁にここ心を留めよ。その宮殿を巡り歩け。後の時代に語り伝えるために。
14 この方こそまさしく神。世々限りなくわれらの神であられる。神は私たちをとこしえに導かれる。
自分がある程度歳を重ねてきてたなあと思うのは、時間の経過がやたらと早く感じる時だ。
正月からもう2か月ちょっとが過ぎているが、何をやっていたのだろう、と。
年始早々、英語の勉強も兼ねて聞いている米国教会でのメッセージで「感謝」ではじまる祈り、というようなものがありとても印象的だった。
これが、つい先週聞いたことのように思えるのは、もしかしたら良いことかも知れない。
そのメッセージの中で、詩編が引用されていたのだが、有名な「数えてみよ主のめぐみ」だった。
今日の箇所とは違うのだが、やはりダビデはその信仰から、めぐみを覚える、数えるということを大事にしていたようだ。
9 神よ。私たちは、あなたの宮の中で、あなたの恵みを思い巡らしました。
今日のみことばで、もっとも目に心に留まったのはこれだ。
ヨブは「裸で生まれたのだから、裸で帰ろう」と言った後神をほめたたえたが、そこに凄く共感を覚えたのも最近。生まれてこの方、神は与え続けてくださっている。与えられたもの全てがめぐみだ。
もう一つ、そう言えばと思い出すのは、確か弁証論の聖書学者だったと思うが、
「人生の最後に歩いてきた道を振り返った時、あの苦しかったことでさえ最善であったのだと知る」
というような事を言っていたことだ。
この世界での人生を終えるまさにその時になって、知り得る神のめぐみ・最善は確かに数多くあるだろうが、まだそこまでいっていない現時点でそれを覚え、神に感謝を表すこと。
これは、聖書では一種の法則性のようなものだ。イエスも「感謝をささげた後」わずかなパンを割いて5000人のフォロワーらの空腹を満たすという奇跡が起こされたのだから。
ダビデが実践する「めぐみを数える」というのは、その感謝のためのツールのようなものだと思う。
神への感謝の後、与えられるめぐみが大きいからと、感謝するのってどうなのか。
なんてことも思わなくもないのだが、神への感謝という行為そのものが、更なる神へのデボーションにつながるなら(=まあ例えば聖書をもっと読むとか)、それは更に神の中に入っていくようなものだから、それもよいのではないかと思う。
めぐみは、受けるものからすると頂戴するものであるし、それにお返しをしていたらめぐみではなくなって取引じみてくる。歳暮・中元じゃああるまいし。
しかし、めぐみ対する応答の態度は、それを与えてくれた方に表明して然るべきだ。
だから、感謝というのは、感謝しようと頑張ってするものではなく溢れ出るものであるはずで、めぐみを数えてみることは、やはり妥当性のあるツールなのだ。感謝が溢れる。
だから、私は今日もダビデに倣い、めぐみに感謝して、感動もして、神を賛美しよう。