1 鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。

2 私のたましいは、神を、生ける神を求めて渇いています。いつ、私は行って、神の御前に出ましょうか。

3 私の涙は、昼も夜も、私の食べ物でした。人が一日中、「おまえの神はどこにいるのか」と私に言う間。

4 私はあの事などを思い起こし、私の前で心を注ぎ出しています。私があの群れといっしょに行き巡り、喜びと感謝の声をあげて、祭りを祝う群衆とともに神の家へとゆっくり歩いて行ったことなどを。

5 わがたましいよ。なぜ、おまえはうなだれているのか。私の前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。御顔の救いを。

6 私の神よ。私のたましいは私の前でうなだれています。それゆえ、ヨルダンとヘルモンの地から、またミツァルの山から私はあなたを思い起こします。

7 あなたの大滝のとどろきに、淵が淵を呼び起こし、あなたの波、あなたの大波は、みな私の上を越えて行きました。

8 昼には、主が恵みを施し、夜には、その歌が私とともにあります。私のいのち、神への、祈りが。

9 私は、わが巌の神に申し上げます。「なぜ、あなたは私をお忘れになったのですか。なぜ、私は敵のしいたげに、嘆いて歩くのですか。

10 私に敵対する者どもは、私の骨々が打ち砕かれるほど、私をそしり、一日中、「おまえの神はどこにいるのか」と私に言っています。

11 わがたましいよ。なぜ、おまえはうなだれているのか。なぜ、私の前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。私の顔の救い、私の神を。

 

今日のみことばを読んで本当に感謝だなあと思うことは、これはあの「As the deer....」の歌の詩編だなとすぐにわかることで、それが歌によってすっかり身に染みていることだ。

 

賛美というのは、手をあげて主を賛美する”態勢”で歌うというわけではなくとも、ただそれを口ずさむだけでも意味があり、それが霊の血肉になっているようにも思えた。

 

「敵のしいたげの中を嘆いて歩く」ダビデの歌だとあらためてわかるのだが、その中で「お前の神はどこにいるのか」と人々に言われていると神に主張している。

 

昨日までQTで読んでヨエル書で、最も心に残ったことは、イスラエルが神に立ち返る場面だった。

それはこれから起こることであると思われるのだが、そこで神は祈り方まで指定されている。

「彼らに、「お前らの神はどこにいるのか」などと言わせておいてもよいのですか」とわたしに祈れ、と神は言われるのだ。

 

それは、神が「そうだな、そんなこと言わせてはならん」として、立ち返るイスラエルを救い出すどころか高々と世で上げるという答えを含む指図であり、なんともこの神はオールインワンなお方であるのかと感嘆した。手取り足取りだろう。

 

ダビデがサウルから追われる時間帯を経ながら、罪と神の間を行き来しながら、世で上げられたこと=イスラエルを治める立派な王になったことは、この歌が歌われた一つの結末として我々は知っている。

だから、あの祈りは本当なのだ。

 

私は割と外向きなところがあるので、ある程度話が通じるなと思った人には、自分がクリスチャンであることを伝えていく。

それで批判的な態度を取る人というのは、さほどいないが、更に進んで聖書の話をしていくと、拒絶反応を起こす人はいる。

 

その時に割と高い頻度で使われる言葉があって「神様が本当にいるなら戦争や病気なんて無いよ」だ。

これはその人にある神様観から来るもの、と言えるのだが、一般的な考えでもあるのだ。

日本の世間一般で神とは、人のための神であって、楽で笑いの絶えない人生を送らせてくれる者、何でも願い事をきいてくれる者、雲の上でにこにこと笑う小さなおじいちゃん、なのだ。

 

しかし、聖書によって貫かれている神のお姿というのは、そういうものではない。

聖書は、神は愛なり、と言う一方で、神は正義と語っており、世界が本来は、人が中心ではなく神中心、神支配下であることを伝えている。

あえて神を擬人化するなら、厳格な親のような姿を伝えるのだ。

 

まあ、正直言うと、聖書の話をすると跳ね返るように「神様が本当にいるなら・・・」と言われると、心穏やかではいられないのだ。

そんな都合のよい神なんて、確かにいるわけないわな、と思ってしまうのだ。

しかしそれでも「そうですよねえ・・・」と右耳から左耳にこれを聞き流さないと、伝道なんて出来ないからそうしているのだが、それがそうもいかずに、この野郎となるから私は伝道がヘタクソなのだろう。まだまだ霊の成長が必要なのだ。

 

だからだから、あのヨエルが預言したイスラエルがすべき祈り、ダビデがここで嘆いて訴えていること「「お前の神はどこにいるのか」という者をそのままにさせておいてよいのですか」と私は祈ろうと思う。

 

それは、私に関して言えば、イスラエルやダビデと違って、敵から身を守ってもらいたいという懇願ではないけれど、私もやはり「谷川の流れを慕う鹿」であるからだ。

谷川、鹿のおだやかなイメージ、あの歌のイメージとは程遠い、あえぐ鹿なのだ。