1 ペトエルの子ヨエルにあった主のことば。

2 長老たちよ。これを聞け。この地に住む者もみな、耳を貸せ。このようなことがあなたがたの時代に、また、あなたがたの先祖の時代にあったろうか。

3 これをあなたがたの子どもたちに伝え、子どもたちはその子どもたちに、その子どもたちは後の世代に伝えよ。

伝承して伝えていくべき預言。さてどんな?

4 かみつくいなごが残した物は、いなごが食い、いなごが残した物は、ばったが食いばったが残した物は、食い荒らすいなごが食った

いなごやらばったやらがそこにあるものを無茶苦茶に破壊

5 酔っぱらいよ。目をさまして、泣け。すべてぶどう酒を飲む者よ泣きわめけ甘いぶどう酒があなたがたの口から断たれたからだ。

酒を飲んでる場合じゃない

6 一つの国民わたしの国に攻め上った。力強く、数え切れない国民だ。その歯は雄獅子の歯、それには雄獅子のきばがある。

わたしの国はイスラエルか、一つの国民とはある単一国家かそれとも新バビロニア?

7 それはわたしのぶどうの木を荒れすたれさせ、わたしのいちじくの木を引き裂き、これをまる裸に引きむいて投げ倒し、その枝々を白くした。

8 若い時の夫のために、荒布をまとったおとめのように、泣き悲しめ

悲しみのための出来事だと

9 穀物のささげ物と注ぎのぶどう酒は主の宮から断たれ、主に仕える祭司たちは喪に服する。

10 畑は荒らされ、地も喪に服する。これは穀物が荒らされ、新しいぶどう酒も干上がり、油もかれてしまうからだ。

11 農夫たちよ。恥を見よ。ぶどう作りたちよ。泣きわめけ。小麦と大麦のために。畑の刈り入れがなくなったからだ。

12 ぶどうの木は枯れ、いちじくの木はしおれ、ざくろ、なつめやし、りんご、あらゆる野の木々は枯れた。人の子らから喜びが消えうせた

13 祭司たちよ。荒布をまとっていたみ悲しめ。祭壇に仕える者たちよ。泣きわめけ。神に仕える者たちよ。宮に行き、荒布をまとって夜を過ごせ。穀物のささげ物も注ぎのぶどう酒もあなたがたの神の宮から退けられたからだ。

14 断食の布告をし、きよめの集会のふれを出せ。長老たちとこの国に住むすべての者を、あなたがたの神、主の宮に集め、主に向かって叫べ

15 ああ、その日よ。主の日は近い全能者からの破壊のように、その日が来る。

16 私たちの目の前で食物が断たれたではないか。私たちの神の宮から喜びも楽しみも消えうせたではないか

17 穀物の種は土くれの下に干からび、倉は荒れすたれ、穴倉はこわされた。穀物がしなびたからだ。

18 ああ、なんと、家畜がうめいていることよ。牛の群れはさまよう。それに牧場がないからだ。羊の群れも滅びる。

19 主よ。私はあなたに呼び求めます。火が荒野の牧草地を焼き尽くし、炎が野のすべての木をなめ尽くしました。

20 野の獣も、あなたにあえぎ求めています。水の流れがかれ、火が荒野の牧草地を焼き尽くしたからです。

 

ヨエル書をQTで深く読むことは初めてなので、ネットで解釈をいくつか調べてみたのだが、ヨエルが預言者であること以外はわからないものだった。

 

この1章に記される預言は、やがてやってくる”主の日”のことであるが、それが”一つの国民”が”わたしの国”にやってくることでもたらされる大きな厄災であることはわかる。

 

これだけを見ると、ああこれはイスラエルが新バビロニア帝国によって滅ぼされたあのバビロン捕囚のはじまりだろうな、とは思える。

 

ただし私は、主の日、それが単にバビロン捕囚だったか、昔あったことだな、と捉えきれないところがある。

それは、終わりの日であり、イエスが再び帰ってこられる日に備えての預言であるかも知れない、と思うからだ

私はイエスが早く帰ってきてもらいたいと思っているが、実はその日に至る過程には、とんでもない苦しみがあることが預言されてる。

世の中にとっては、ちっとも嬉しい日ではなく、大勢の人が亡くって喜びは失せるだろうから。

 

ただ、私が理解している範囲内では、イエスを信じる者は、その苦しみの前に挙げられるとある。

それで思うことは、ヨエルのこの預言が仮にイエス再臨のとするなら、すべの国民を集めてきよめの集会をせよ、とあるのだが、厄災の前に挙げられるためには信仰がある必要があるのだから、今の言わば平時、まだいなごやらばったやらが全てのものを食い荒らすようなことになっていない今から、主に叫ぶことが必要なのではないか、と思う。

 

経験からすると、しんどいことがないと、なかなか主に叫ぶのは難しい。

祈り会など、場の陶酔でそのような感じになるものは、一時の高揚でしかない場合も多く、帰り道には買い食いして楽しんでいるなんてことはよくある。

 

しかし、そういう信仰は見直せというのが、私にとってのこのみことば、預言であると思う。

私が待ち望む日、世には厄災の日であり、それが平穏で済むことはまずない。

厄災の前に挙げられるためにはイエスを信じる信仰をいつも常時片時も離さないこと。

そして、大事だと思う人には福音を伝えることだ。出来るだけ苦しみに合わせないために。

そのようなメッセージであると受け取った。

主よ、待ち望みます。