24 それから、彼らは、イエスを十字架につけた。そして、だれが何を取るかをくじ引きで決めたうえで、イエスの着物を分けた。

25 彼らがイエスを十字架につけたのは、午前九時であった。

26 イエスの罪状書きには、「ユダヤ人の王」と書いてあった

27 また彼らは、イエスとともにふたりの強盗を、ひとりは右に、ひとりは左に、十字架につけた。

28 (異本)「こうして『この人は罪人とともに数えられた』とある聖書が実現したのである」

29 道を行く人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。「おお、神殿を打ちこわして三日で建てる人よ。

30 十字架から降りて来て、自分を救ってみろ。

31 また、祭司長たちも同じように、律法学者たちといっしょになって、イエスをあざけって言った。「他人は救ったが、自分は救えない。

32 キリスト、イスラエルの王さま。今、十字架から降りてもらおうか。われわれは、それを見たら信じるから。」また、イエスといっしょに十字架につけられた者たちもイエスをののしった。

 

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イザヤ書53:6-8

6 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた

7 彼は痛めつけられた彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれていく羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない

8 しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを

 

私は、イエスのこの十字架の出来事を解説するものとして、それが起こるはるか昔に預言されたこのイザヤ書の記述を用いることが多い。

 

今日のみことばにある、人々、祭司長、律法学者らからイエスへの辱しめがどうして起こったのかと言うと、それは「主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた」からだ。

 

ここ数日、十字架へと、復活へと進まれるイエスの足跡を追うようにみことばをかみしめるのだが、イエスは、我々人の罪の赦しのために命を差し出してくださっただけではなく、それへと至る過程の中で、人なら誰しも大事にしたり大好きだったりしているものまで差し出しておられることを学ぶ思いだ。

 

イエスは、バプテスマのヨハネから洗礼を受けた後、公生涯と呼ばれる3年間の活動を始められたが、超自然的な病からの癒しや人に居座る悪霊の退治など、人では不可能なみわざをもって、ご自身が人の姿ではあるけれど神である片鱗を見せられた。

特にこのマルコの福音書では、そういう奇跡に焦点があたっているところがあるので余計に伝わるものがあるのだが、そのことによって、大勢の追従者たるファンがイエスについてくることになった。

 

イエスは多くの人々から熱い支持、崇拝、信頼を受けられた。

一躍スーパースターになっておられたと言うと安いような違うような感じもするが、そのような人々の”的”であったのだ。

 

エルサレム入城で「ホザナホザナ」と言う民衆から温かい迎え入れを受けられたが、あれが佳境であったのかなあとも思う。

 

ところが、ご自分の公生涯の最後の役割へと進まれる中で、拒絶、批判、辱しめの対象へと一転してしまったのだ。

イエスは、スーパースターになるためにこの世に人の姿で来られて公生涯を歩まれたのではないということだ。

 

現代刑法に定まる刑罰とは、犯罪者が持っているものの何を取り上げるのかを裁判で決定し、執行されるものを指す。

犯罪者から資産を取り上げるなら罰金刑。時間や人生の年月を取り上げるなら懲役や時に禁錮刑。命なら死刑という具合だ。

 

イエスは、そもそも人となって来られた時点で「神としてのあり方を捨てられないとは考えられずに、人としての姿」を人々に対して現わされたわけで、既にご自分を低い者とされているのだが、更にその人のレベルにおいても、何も「口を開かない」ばかりか、ご自分の刑を確定させるかの如く不利になる言葉のみを発せられて、ますます捨てられていったのだ。

 

人間なら誰しも嫌われるよりは好かれる方を、侮辱されるよりは尊敬される方を、粗末に扱われるよりは大事に扱われる方を望む。

その人の感性からすると、イエスは好かれ、尊敬され、大事に扱われたのだが、それを自ら捨てられたのだ。

刑法で言うなら、全てを取り去られた上、命までも。

あのホザナホザナの人々の声は「おお、神殿を打ちこわして三日で建てる人よ。 十字架から降りて来て、自分を救ってみろ。」と馬鹿にするような言葉に変わり果てた。息苦しくなる思いだ。

 

これは「主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた」からであることを心に刻むべきところだ。

つまりイエスが捨てられたものは、この罵る人や祭司長らの罪を含む、アダムとエバ以来人にある全ての罪、もちろん私自身の罪について、神から赦しを受けるために必要であった代価に相当するものであり、イエスがそれを支払ってくださったということだ。

パウロは、「ここに愛がある」と述べたが、まさに「ここ」がそれだと心に刻むところだ。この惨劇に神から人に対する愛が現れている。

 

さて、今日のみことばからは、捨てること、が示されている。

私は日常生活の中で、ほとんどの時間を「得ること」に焦点を当てていると言える。

しかし今日は、イエスは公生涯の最後の場面、即ち人としての人生の最終点を捨てる事で終えられていることに着目したい。

それは、神の目には最終点ではなく超重要な過程だ。

捨てること。それが何なのかはまだわからないが、留意して臨みたい。

主よ、待ち望みます。