35 イエスが宮で教えておられたとき、こう言われた。「律法学者たちは、どうしてキリストをダビデの子と言うのですか。
36 ダビデ自身、聖霊によって、こう言っています。『主は私に言われた。「わたしがあなたの敵をあなたの足の下に従わせるまでは、わたしの右の座に着いていなさい。」』
37 ダビデ自身がキリストを主と呼んでいるのに、どういうわけでキリストがダビデの子なのでしょう。」大ぜいの群集は、イエスの言われることを喜んで聞いていた。
38 イエスはその教えの中でこう言われた。「律法学者たちには気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ったり、広場であいさつされたりすることが大好きで、
39 また、会堂の上席や、宴会の上席が大好きです。
40 また、やもめの家を食いつぶし、見えを飾るために長い祈りをします。こういう人たちは人一倍きびしい罰を受けるのです。」
41 それから、イエスは献金箱に向かってすわり、人々が献金箱へ金を投げ入れる様子を見ておられた。多くの金持ちが大金を投げ入れていた。
42 そこへひとりの貧しいやもめが来て、レプタ銅貨を二つ投げ入れた。それは一コドラントに当たる。
43 すると、イエスは弟子たちを呼び寄せて、こう言われた。「まことに、あなたがたに告げます。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れていたどの人よりもたくさん投げ入れました。
44 みなは、あり余る中から投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、あるだけを全部、生活費の全部を投げ入れたからです。」
イエスを信じて間もない頃、私は若い信徒たちから影響を受けたが、そう言えば、献金についても驚いたことがあった。
彼女は大学生だったが、母親との2人暮らしで決して裕福とは言えず、生活費はアルバイトで賄っていた。
ある時彼女が、会堂の出口に置いてあった献金箱に、いかにも分厚い封筒をさっと入れるところを見た。
あとからわかったことだが、そこには願いがあったようだ。
そして願いは叶えられた。簡単なことではない願いだが、道が開かれていった。
ちなみにその道は、うまく進めばエリートで高給取りの道でもあったのに、彼女は突然リタイアした。今は献身している。
そういう彼女の姿は、ある時、私にも同じ行動を起こさせた。
それは、経済状態がどん底の状態からなんとか回復した頃で、いよいよ希望に満ちて歩みだそうという時に起きたある出来事に関係した。
自分が昔にやらかした失態の刈り取りが用意されていたのだ。
要は金を失うという話で、またもや経済的にどん底に落ちるのかと悲しい気持ちになったのだが、私には既にイエスを信じる信仰があった。
そして、本当になけなしの1万円札。手持ち資産のほぼ全てであったが、それを献金した。結果、速やかに危機から回復され、再び歩み出すことが出来た。
そんなことは普通はありえない。英語で、アンビリバボーとかアメイジングという言葉がよく使われるが、まさにそんな感じで、与えられたとわかった時、私は地面にひれ伏してしまった。本当にびっくりしたのだ。今もびっくりしている。
信仰を働かせる、という言葉をクリスチャンは時々使う。
色々な場面でそうあるのだが、献金においても使う時があると思う。
金を持っていなくて金が必要なのに献金するなんて、一般常識では考えられないことをするのであり、アホだと思われても仕方ない。
しかしそれは、信仰が働くからそうするのだ。アホになったわけではない。
ではその時の信仰とは何かと言えば、神への期待はもちろんだが、一方的な依存心、しがみつき、懇願とか、神に対する強い渇きがそうさせているのだと思う。
この貧しいやもめが、一体どんな渇きがあったのかはわからない。
しかし、生活費の全額を献金したのだから、慣習としての献金でないのは確かだ。
生活をイエスに委ねた。そうなのかも知れない。
全ての渇きをイエスに祈ろう。
この貧しいやもめほど、昔の私ほど、猛烈な渇きを今の自分に感じないのだが、そこが問題だ。
全てに信仰を働かせようと思う。願いというか、助けが必要な状況は確かにあるのだから、自分をしっかり吟味して、渇いた心で神に向かい祈りたいと思う。信仰を働かせるのだ。
主よ、待ち望みます。