朝早く、通りがかりに見ると、いちじくの木が根まで枯れていた。
21 ペテロは思い出して、イエスに言った。「先生。ご覧なさい。あなたののろわれたいちじくの木が枯れました。」
22 イエスは答えて言われた。「神を信じなさい。
23 まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。
24 だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。
25 また立って祈っているとき、だれかに対して恨み事があったら、赦してやりなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの罪を赦してくださいます。」
26 (異本 しかし、もしゆるしてやらないなら、あなたがたの天の父も、あなたがたの罪を赦してくださいません)
27 彼らはまたエルサレムに来た。イエスが宮の中を歩いておられると、祭司長、律法学者、長老たちが、イエスのところにやって来た。
28 そして、イエスに言った。「何の権威によって、これらのことをしておられるのですか。だれが、あなたにこれらのことをする権威を授けたのですか。」
29 そこでイエスは彼らに言われた。「一言尋ねますから、それに答えなさい。そうすれば、わたしも、何の権威によってこれらのことをしているかを、話しましょう。
30 ヨハネのバプテスマは、天から来たのです、人から出たのですか。答えなさい。」
31 すると、彼らは、こう言いながら、互いに論じ合った。「もし、天から、と言えば、それならなぜ、彼を信じなかったかと言うだろう。
32 だからといって、人から、と言って良いだろうか。」—彼らは群集を恐れていたのである。というのは、人々がみな、ヨハネは確かに預言者だと思っていたからである。
33 そこで彼らは、イエスに答えて、「わかりません」と言った。そこでイエスは彼らに、「わたしも何の権威によってこれらのことをするのか、あなたがたに話すまい。」と言われた。
律法学者らは、イエスに何と答えたら有利になるかと論じ合った。
そして出された答えによって、窮地に立たされた。
はい。この律法学者らの姿は、お前だよ、と神は言われていると思う。
みことばから枝葉を茂らせる必要はない。
しかし私はここはブログだから、どなたが読んでくれてるかも知れんなということで、色々と枝葉を付けてみたくもなる。
知識を披露してみたりもしたくなる。
ググってわかったことを、如何にも知っていたかのようにふるまってみたくもなる。
そういうの、やめい!と言われている気がする。
というのは、結局そのどうでもよい枝が、あたかも根っこに直結する幹だと勘違いするようになるからだ。
さしずめ律法学者らは、自らを幹と勘違いした枝である。
根っこの神を見失っていたのだ。
そしてまた枝同志で議論をはじめた。結果はご覧通りというわけだ。
今日の祈りについてのイエスのみことばもそう。
そのままを受け取るべきなのだ。
また聖書は言う。
信じたのなら赦されるんだ、と。
だから、赦されているんだ、と受け取ればよい。
罪が赦されたら、死んでも天国に行けるのだと言う。
だから、おれは死んでも天国だ、と受け取ればよい。
いやいや俺なんかはまだまだ・・・などと根なし実なしの枝葉を次々と張らすなと言われているのだ。
今日はもうそれだけで十分だ。