1 さて、彼らがエルサレム近くに来て、オリーブ山のふもとのベテパゲとベタニヤに近づいたとき、イエスはふたりの弟子を使いに出して、
2 言われた。「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない、ろばの子が、つないであるのに気がつくでしょう。それをほどいて、引いて来なさい。
3 もし、『なぜそんなことをするのか』と言う人があったら、『主がお入用なのです。すぐに、またここに送り返されます』と言いなさい。」
4 そこで、出かけて見てみると、表通りにある家の戸口にろばの子が一匹つないであったので、それをほどいた。
5 すると、そこに立っていた何人かが言った。「ろばの子をほどいたりして、どうするのですか。」
6 弟子たちが、イエスの言われたとおりを話すと、彼らは許してくれた。
7 そこで、ろばの子をイエスのところへ引いて行って、自分たちの上着をその上に掛けた。イエスはそれに乗られた。
8 すると、多くの人が自分たちの上着を道に敷き、またほかの人々は、木の葉を枝ごと野原から切って来て、道に敷いた。
9 そして、前を行く者も、あとに従う者も、叫んでいた。「ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られた方に。
10 祝福あれ。いま来た、われらの父ダビデの国に。ホサナ。いと高き所に。」
ゼカリヤを通した与えられた預言の成就。
これがイエスのエルサレム入城である。
ゼカリヤ書
9:9 シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜わり、柔和で、ろばに乗られる。それも、雌ろばの子の子ろばに。
当時のユダヤ民衆にとって、この預言がよく知られたものであったのかどうかはわからない。
ただ、情けないような姿をした子供ロバに乗って(=馬ではなく)エルサレムに入るというイエスの意図は、この預言で言われる「王」であることの明確な宣言であり、仮に預言を知らない民衆にとっても「ああ、そういうことか」という気づきを与えたことだろう。
単純に、「イエスは王」であることを民衆に完全認知させるのに必要なイベントだった。
それにしても想像すると滑稽な風景である。
子供のロバに乗ったイエスとそれに連なったであろう弟子たちによる、さしづめ、小さなエルサレム凱旋パレードだ。
しかしその規模も様子も、ナポレオンのパリ凱旋などには程遠く、道に上着やシュロが敷かれていたというのだから、学園祭の催しほどのものだったであろう。
もちろん、歴史がその後どのように動くかを私たちは知っているから、ここで胸を膨らませていた民衆や弟子らの希望は、とんだ勘違いであることがわかる。
彼らの希望は、ローマ支配からユダヤを解放して栄華のユダヤ帝国を再興してみせる王の登場、であったのだから。
ところが、その王は子供のロバに乗って、丸腰の弟子たち含めて数十人ほどを従えているだけだ。この時点で既に、なんかおかしいな、と思う者もいたかも知れない。
弟子たちも、つい先ほどイエスは「死んでからよみがえる」と言われていたのだから、あれなんかおかしいなあ、と言う疑問がどこかにあった。
そんな感じだったのかも知れない。
長期的に見たこのイベントの意義とかは一旦度外視してみると、この様子は滑稽ではあるがどこか楽し気なものであり、私はなんとなく好きだ。
一方で心に迫るのは、最も低いところを通られるイエスの姿だ。
イザヤによるイエスの降誕預言も心に湧いてくる。
イザヤ
9:6一人のみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は『不思議な預言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる。
ちょうど昨晩のこと。
用事で繁華街を通りかかった時、知らない外国人に罵倒されることがあった。
私に原因があったと言えなくもないが、まるで見下すように吐いた彼の汚い言葉に、私は激怒して一言二言、罵倒し返してしまった。
幸いにもその場は特にそれ以上の荒れもなかったのだが、私は自分にある攻撃性に「これが本性なのかな」と落胆した。すぐに悔い改めて、心である宣言を繰り返した。
嘘みたいな話だが、その後、別の外国人に突然声をかけられた。
私はただ歩いていただけなのに。
そして彼は自分のことを「私は日本人に見えるか?」という質問をしてきた。
私は「あなたは日本人には見えないですよ」と答えると、彼は「あなたは日本人だよね、英語の発音が素晴らしいよ」と言ってきた。
彼は酔っぱらっていたのだろうか。
それでも私は少し嬉しい気持ちになった。
なぜなら、今年に入ってから、毎日少しずつ英語の学びなおしをしていて、昨日も空き時間にはよく使われる定型文をせっせと暗記していたのだから。
それから彼は、どこで英語を学んだのかとか、日本人がどうやったらそういう発音が出来るようになるのかとか聞いてきたら、キリスト教会で英語が必要だからだとかの内容を話して、小さな証も立てることが出来た。
これは神によるなぐさめだと思った。
そして、今日のみことばもまた、なぐさめである。
高い者になりたい、人から敬われたい、というような願望が、やはり私の本性としてはあるし、悪魔の策略も絶えず私を取り巻くのだ。
その結果見せられるのは、大して高い存在でもなく、敬われるわけでもないという現実だ。そして落胆するのだ。
しかしイエスがみことばを通して今日語られるのは「わたしを見なさい」。
産まれたのは不衛生極まりない馬小屋で、エサを入れる飼い葉桶に寝かされた。
大工という今で言うところのガテン系を職として過ごされた。
そもそも神と言う支配者なのに、卑しい人となって来られた。
そして、王と言う割に、子供のロバに乗るという質素な姿でエルサレムに入られたのだ。
もちろん、ただの王ではない。死を突き破り復活されたお方で、つまり、命を司るという神の権威を持たれた、王の中の王、全宇宙の支配者である。
私もこの地上にあっては色々と情けないところを通ってはいるのだけれど、イエスにあっては、神の国を相続することを許される者の一人なのである。
だからこそ、低くありたいと思う。恥ずかしい存在でよいのだと思う。
むしろそれを選択していった方がよいのだとも思う。