イエスは、そこを立って、ユダヤ地方とヨルダンの向こうに行かれた。すると、群集がまたみもとに集まって来たので、またいつものように彼らを教えられた。

2 すると、パリサイ人たちがみもとにやって来て、夫が妻を離別することは許されるかどうかと質問した。イエスをためそうとしたのである。

3 イエスは答えて言われた。「モーセはあなたがたに、何と命じていますか。」

4 彼らは言った。「モーセは、離婚状を書いて妻を離別することを許しました。」

5 イエスは言われた。「モーセは、あなたがたの心がかたくななので、この命令をあなたがたに書いたのです。

6 しかし、創造の初めから、神は、人を男と女に造られたのです。

7 それゆえ、人はその父と母を離れ、

8 ふたりは一体となるのです。それで、もはやふたりではなく、ひとりなのです。

9 こういうわけで、人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません。」

10 家に戻った弟子たちが、この問題についてイエスに尋ねた。

11 そこで、イエスは彼らに言われた。「だれでも、妻を離別して別の女を妻にするなら、前の妻に対して姦淫を犯すのです。

12 妻も、夫を離別して別の男にとつぐなら、姦淫を犯しているのです。」

13 さて、イエスにさわっていただこうとして、人々が子どもたちを、みもとに連れて来た。ところが、弟子たちは彼らをしかった。

14 イエスはそれをご覧になり、憤って、彼らに言われた。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。

15 まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入ることはできません。」

16 そしてイエスは子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福された。

17 イエスが道に出て行かれると、ひとりの人が走り寄って、御前にひざまずいて、尋ねた。「尊い先生。永遠のいのちを自分のものとして受けるためには、私は何をしたらよいでしょうか。」

18 イエスは彼に言われた。「なぜ、わたしを『尊い』と言うのですか。尊い方は、神おひとりのほかには、だれもありません。

19 戒めはあなたもよく知っているはずです。『殺してはならない。偽証を立ててはならない。欺き取ってはならない。父と母を敬え。』」

20 すると、その人はイエスに言った。「先生。私はそのようなことをみな、小さい時から守っております。」

21 イエスは彼を見つめ、その人をいつくしんで言われた。「あなたには、欠けたことが一つあります。帰って、あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」

22 すると彼は、このことばに顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。なぜなら、この人は多くの財産を持っていたからである。

23 イエスは、見回して、弟子たちに言われた。「裕福な者が神の国に入ることは、何とむずかしいことでしょう。」

24 弟子たちは、イエスのことばに驚いた。しかし、イエスは重ねて、彼らに答えて言われた。「子たちよ。神の国に入ることは、何とむずかしいことでしょう。

25 金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」

26 弟子たちは、ますます驚いて互いに言った。「それでは、だれが救われることができるのだろうか。」

27 イエスは、彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。どんなことでも、神にはできるのです。」

28 ペテロがイエスにこう言い始めた。「ご覧ください。私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました。」

29 イエスは言われた。「まことに、あなたがたに告げます。わたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、畑を捨てた者で、

30 その百倍を受けない者はありません。今のこの時代には、家、兄弟、姉妹、母、子、畑を迫害の中で受け、後の世では永遠のいのちを受けます。

31 しかし、先の者があとになり、後の者が先になることが多いのです。」

 

子供のように神の国を受け入れること。

これは、私にとってずっとある課題だ。

課題ではなく戻るべきところとか、初心とか、そういうものかも知れない。

よく考えることでもあるが、あらためて黙想してみた。

 

例えば小学校の低学年くらいの子供を想像すると、親以外の大人と一対一で行動することは珍しいことだと思う。

そういう点では、イエスと子供の関係性もまた、子供、というよりも「子供たち」とする方がなんとなくしっくり来る。

それを大人である私、すっかり初老期も見えてきたこの私への適用を考えると、やや無理を感じもするのだが、一つのポイントとしては「群れ」であることだろうなあ、と思った。

 

信仰を持ち始めた頃、私は既に40手前であったのだが、10-20代のユースと行動することが多かった。

夏になるとサマーキャンプに出掛けたのだが、私は運転手が必要ということだったので、有休を取って参加した。

ほんの半年前まではややこしい”仕事”ばかりしていた私には、実は、なんだか居心地が悪いものだったが、イエスを信じる信仰がより固められることになった。

 

昼は海遊びに山遊び、夜にはバイブルスタディやディスカッションと言う流れが数日あったが、最終日の夜、一人一人が短く証をしてキャンプを締めくくるということになった。

私は「良い経験でした」で終わらせるつもりだったのだが、若いリーダーが、ニュークリスチャンとしてどうかとか、そういう質問をしてくるので、福音を受け入れるまでのことまでも話をした。

するとなんだか、自分を上の方から眺めている気持ちになってきて、”仕事”にせっせと取り組む過去の自分とユースのコらと美し気な話をしている自分の対比が見えてきて、嬉しさなのか、過去の悔恨なのか、涙が止まらなくなってしまった。

 

そして、そのリーダーもボロボロに泣き始めて、妙なほどの盛り上がりになっていったのだが、皆で賛美を歌おうということになり、ある日本語の賛美を歌った。歌ってくれた。

※私はそれから賛美とは、力あるものだなあ、と思うようになった。

 

感動した、とか、そういうところではなく、何かもともとある一体感に自分も含まれていったような、そんなものだった。

私はこれが、イエスにある群れの力だと思う。

 

子供が群れてイエスに親しむというのは、とても強い信仰を生むと思える。

集団心理と言えばそうなのだが、それを冷めた目で見つめるのではなく、自分も自分もと入っていくこともまた、子供のような信仰なのではないかな、と思えるのだ。

 

実のところ、現在所属している教会のスモールグループも、20代で構成される若いコたちのものだ。

昨日は、あるメンバーの家に集まってゲームをしていたようだ。

私と家内は、そういうところにはあまり参加しないのだが、次は参加してみようか、とも思う。

何か、新しい力が頂けるかも知れない。