23 ある安息日のこと、イエスは麦畑の中を通って行かれた。すると、弟子たちが道々穂を摘み始めた。

24 すると、パリサイ人たちがイエスに言った。「ご覧なさい。なぜ彼らは、安息日なのに、してはならないことをするのですか。」

25 イエスは彼らに言われた。「ダビデとその連れの者たちが、食物がなくてひもじかったとき、ダビデが何をしたか、読まなかったのですか。

26 アビヤタルが大祭司のころ、ダビデは神の家に入って、祭司以外の者が食べてはならない供えのパンを、自分も食べ、またともにいた者たちにも与えたではありませんか。」

27 また言われた。「安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません

28 人の子は安息日の主です。」

1 イエスはまた会堂に入られた。そこに片手のなえた人がいた。

2 彼らは、イエスが安息日にその人を直すかどうかじっと見ていた。イエスを訴えるためであった。

3 イエスは手のなえたその人に「立って真ん中に出なさい」と言われた。

4 それから彼らに、「安息日にしてよいのは、善を行うことなのか、それとも悪を行うことなのか。いのちを救うことなのか、それとも殺すことなのか」と言われた。彼らは黙っていた。

5 イエスは怒って彼らを見回し、その心のかたくななのを嘆きながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。彼は手を伸ばした。するとその手が元どおりになった。

6 そこでパリサイ人たちは出て行って、すぐにヘロデ党の者たちといっしょになって、イエスをどのようにして葬り去ろうかと相談を始めた。

 

安息日については、今でもイスラエルでは公共交通機関が止まるなど、社会活動そのものを停止してでも”休む”向きがあり、それほども重要に扱われるものであることがわかる。

 

確かに、旧約聖書に登場する戒律には安息日は「働いてはいけない」日とされているから、聖書的合理性はあるようには思う。

 

ただ、1週間のうちに6日間は働いて1日は休むということがセットなのであって、その1日の休みのみを抜き出して「休まなければ」とすることは、どこか滑稽な気もする。

 

神は最初の人を創造された時から、労働をその人の与えている。

つまり人には、働くことが遺伝子レベルで当然のように備わっているということになる。

 

しかし、もし休みもなく労働が続いたらどうだろうか。

賃金労働と仮定すれば、週に6日間より7日間働く人の方が給与が大きくなる。それは悪いことではない。

 

体力的にはどうだろう。週に7日働くことは可能であるかどうかと言えば、私は場合によっては可能であるとは思うのだが、まず疲労困憊になって、仕事の質は低下していくだろう。

 

もう一つ重要な問題が起きる。それは、生きることそのものが労働に支配されることになってしまうということだ。

例えば、翌日が出勤日である前の日の夜と、翌日が休日である前の日の夜の動きや精神状態を想像すると、労働時間だけが労働ではなく、前日準備もまた、労働に属すようなものである。

つまり労働とは、支配力が強いものであると私は思う。

 

そこが問題であることを神は知っておられたから、安息日という休日を定められたのではないか。

つまり、肉体・精神的休息であると共に労働に支配されない日ということであり、それは同時に、神への支配を積極的に思い起こし御心を求める日、ということだ。

ただ何もしないだけが安息日ではない、と言える。

 

こうして見ると、イエスは、パリサイ派が安息日の本質から離れていることを指摘されているだとわかってくる。

そして、それは神でもあるイエスのことばなのであるから、議論の余地もないことだ。

安息日の善行は善であり、悪ではない。

もし悪とは何かをここで言うなら、神のことを思うこともなく、ただ「ルールであるから」と、安息日における人としての活動や善行さえも糾弾する目と心。ということになろうか。

 

今日は安息日について、深く思いを巡らすことが出来て感謝だった。

このことは私にとって、働く日はしっかり働くように、という神からのメッセージでもあり、安息日には「わたしが休ませてあげよう」というメッセージでもあった。

 

つまり、ハードワークを厭うな、ということだ。休みが必要なのは「働く者にとって」だと心に留める。