15 蛭にはふたりの娘がいて、「くれろ、くれろ」と言う。飽くことを知らないものが、三つある。いや、四つあって、「もう十分だ」と言わない。
16 よみと、不妊の胎、水に飽くことを知らない地と、「もう十分だ」と言わない火。
17 自分の父をあざけり、母への従順をさげすむ目は、谷の烏にえぐりとられ、鷲の子に食われる。
18 私にとって不思議なことが三つある。いや、四つあって、私はそれを知らない。
19 天にある鷲の道、岩の上にある蛇の道、海の真ん中にある舟の道、おとめへの男の道。
20 姦通する女の道もそのとおり。彼女は食べて口をぬぐい、「私は不法を行わなかった」と言う。
21 この地は三つのことによって震える。いや、四つのことによって耐えられない。
22 奴隷が王となり、しれ者がパンに飽き、
23 きらわれた女が夫を得、女奴隷が女主人の代わりとなることによって。
24 この地上には小さいものが四つある。しかし、それは知恵者中の知恵者だ。
25 蟻は力のない種族だが、夏のうちに食糧を確保する。
26 岩だぬきは強くない種族だが、その巣を岩間に設ける。
27 いなごには王はないが、みな隊を組んで出て行く。
28 やもりは手でつかまえることができるが、王の宮殿にいる。
29 歩きぶりの堂々としているものが三つある。いや、その歩みの堂々としているものが四つある。
30 獣のうちで最も強く、何ものからも退かない雄獅子、
31 いばって歩くおんどりと、雄やぎ、軍隊を率いる王である。
32 もし、あなたが高ぶって、愚かなことをしたり、たくらんだりしたら、手に口を当てよ。
33 乳をかき回すと凝乳ができる。鼻をねじると血が出る。怒りをかき回すと争いが起こる。
聖書が語ることを真理と握りながら、実際の行動は世の流れとか価値観に基づくものも実は多く、そのたびに自己分裂とはいかないまでも、屈折の苦しみを味わう。
特に今日のみことばでは、聖書の真理、つまりみことばに立つこと、小さくあって神と共にあることの幸いがうたわれていると思う。
この世は概ね、大きくあることを正義としていれば、まあ方向性を間違うことはない。
人はだいたい、大きくなりたがる傾向が強い。
大きければ強い、強ければ多くを従えることになり更に強くなる。
それがアグルの言う、堂々と歩く者の姿だ。
しかしそこには怒り、怒りの交わりが争いになる、と。
まさにこの世の中の姿そのものじゃないかと思わせられる。
一方、小さいものを知恵者中の知恵者としている。
蟻に岩だぬきにいなごにやもり。内容は説明される通りであるが、特にわかりやすいのは蟻といなご。
その1匹1匹は、超小さい上に賢いわけでもない。
しかした絶え間なく働く蟻の力はイエス様が「蟻を見よ」と言う程であり、いなごはただ大群を成して大きな力を発揮してしまうのは、エクソダスに記される通りだ。
岩だぬき(調べたけれどよくわからない)は、岩に巣を作るということは、安全地帯に住まうということで、やもりが住まう王宮もまた堅固な住まいと言える。
こちらもその小ささゆえに、だ。
中間結論的には、個々の小ささはむしろ群れの強さを生む、そんな風にも捉えられる。
聖書の中の箴言だから、このことは主に教会組織に生かされる場合が多いように思う。
しかし私は信徒でありながら企業人でもあるから、是非これを、企業に生かしたい。
思考の領域としては、能力や実力はそのまま、ありのままでOKというもので良いかとと思う。
大きいものを目指すのが世の常であるのだから、小さなものを目指せと言っても、ある程度大きくなっている者には出来ないことだ。
だから、もっと大きく更に強く、を目指すのではなく、個々は今のままで十分という認識でよいのかな、と思う。
実践については、協力、協働。
これには指揮者たるリーダーが必要というのは一般的考えだが、あえていなごの如く皆で飛ぶ、蟻の如く皆で働く、もうそれだけで良いのではと思う。
とにかく共にあること。
コミュニケーションのためのツールは今や個々の居場所を問わなくなった。
携帯電話、SNS、リモートツールもたくさんある。
組織の構成員が共にあることは、そんなに難しいことではない。
今日のみことばは、そういうヒントを頂いた。
ちょうど今日で仕事納めになるのだが、来年のはじめから、「今年のテーマ」として取り組むのに良いものを頂けたと感謝している。
小さくあって神と共に。これも箴言から教えられたことであるが、この幸いに生きたいと思う。