1ヨハネ4:7-15
7 愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。

8 愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。

9 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。

10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物として御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

11 愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです

12 いまだかつて、だれも神を見た者はありません。もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。

13 神は私たちに御霊を与えてくださいました。それによって、私たちが神のうちにおり、神も私たちのうちにおられることがわかります

14 私たちは、御父が御子を世の救い主として遣わされたのを見て、今そのあかしをしています。

15 だれでも、イエスを神の御子と告白するなら、神はその人のうちにおられ、その人も神のうちにいます

 

”愛”という言葉。世間一般的によく使われるのは、恋愛のことだろう。

恋とは、個人差はあるとは思うが、その恋する対象に対して差し出すものがあまりに大きく、時にそれは人として理不尽・不条理なほど、非合理的で非常識であったりもする。

つまり、理性を超越するほどに狂おしく慕うというもの。

傍から見れば、「なぜあのコにそんなに恋してんの」とか「やりすぎでしょ」というものも時にはある。当人以外には理解不能であったりするわけだ。

 

私は個人の感覚として、神から私たち人への愛がどれほどのものかと言うと、親から子への愛よりも、むしろ恋愛に近いのではないかと思う。もちろん、そこには性的なものは一切含まれず、ただひたすらに、狂おしいほどに愛おしむという情愛だ。

 

他人の子供が生きるために自分の子を犠牲にする。

人間的にこんなことは滅多にないことだが、ゼロではないだろう。

しかし、神がご自分の愛が人にわかるように示された方法は、それどころでは済まない。

自分の唯一の子を徹底的に痛めつけて最悪の恐れや苦しみを与えた挙句、「お前などは子ではない」というまでに見捨てるという絶望までも与えて、極めて残酷に死なせたのだ。一切の罪を犯さずに三十数年この世の人生を生きたイエスのことだ。

なぜ神はそのようなことをされたのか。まさに、理解に苦しむほどの理不尽さを感じる。

さすがに、自分の子をこのような目に合わせる親はいないだろう。

 

しかし、そこには人の理性をはるかに超越した神のご理性が存在する。それが、聖書の言う神の愛だと私は思う。

つまり、我々この世で生を受けて人生を送る人間の全ての罪を取り去り”永遠に”生かすためには、イエスをそのように我々の身代わりとして罰すしか方法が無いのであり、それを躊躇なく実施された。

これは、神の我々に対する愛の表れだ。狂おしく愛しておられる。

神の愛を言葉にしようとすれば、このようなものかと思う。

 

恋愛の場合、恋をした相手にどれほどのものを捧げたとしても、それに相手が愛で応答してくれるとは限らない。

時にはそういう情愛はむさ苦しがられることもある。結構あるのではないか。

それを「片想い」と呼ぶのだろうが、そうなれば、恋する者が与えようとするものを、恋される者が受け取ることはない。受け取ることを嫌がっているのだから。

 

神のその狂おしい愛もまた、我々愛される人間がむさ苦しがっているうちは、受け取ることが出来ない。

神が愛する我々に与えようとして差し出している”永遠のいのち”は、受け取れないということだ。

 

人の恋愛で、恋される者が恋する者に対して示す好意的な応答は、結果的に何かを差し出すことになるだろう。

そして、恋する者もまた、やがてはその狂おしさから覚めて、そういう応答を求めるのが常である。

しかし、神が人を愛する理由は、人から何かを頂戴しようとしてのものではなく、それが神にあるご理性、ご性質であるからだ。

それが、「なぜなら神は愛だからです」という今日のみことばに集約されている。

見返りなどは求めていないのだ。

ただ好意的にありがとうと受け取ること。

そういう心持ちは全ての人に求めて待っておられる、ということだ。

 

肉体が滅んでも魂は生かされて、やがては物理的に肉体も復活するというのが、聖書が言う”永遠のいのち”の具体だ。

これを信じて、これまで数百どころか数千億の人が受け取ってきたものがキリスト教とかクリスチャンの正体と言える。

この辺は難しいのだが、信じることそのものが受け取ることを意味する。

 

しかし、そんなイエスの死と引き換えになんて・・・

と言う人もいるだろうが、イエスは復活されている。

イエスは復活されている。死んで墓の下で眠っておられるのではない。

イエスは復活して今も生きておられる。

あえて軽々しく言うとするなら、遠慮は無用、なのだ。

 

イエスの死は、かわいそうな犠牲者を題とした湿っぽいネトフリのドラマでもない。

イエスは本当に死からよみがえり、大勢の人が見ている前で天に昇られた。

だから、こんなにも多くの人たち=これまで数千億もの人が信じて永遠のいのちを受け取るに至っているのだ。

 

イエスの復活は、西暦33年とされる。

そして、その復活を伝えている新約聖書の中にある福音書は、西暦65年頃に成立している。

つまり、復活から32年後に成立し、広く読まれ出したということだ。

 

32年前のことを思い出してみる。1990年頃は何をしていたかいな、と。

私は高校生で、あの頃はラグビーに熱狂していた。

大阪体育大学と早稲田大学の試合が印象的で、あれをきっかけにラグビーを始めた。

音楽バンドがブームとなって、ギターの練習もしていたな。

 

32年前程度なら、結構思い出せる。

もしイエスの復活が、実際にはそんなことは無かったのにまるであったかのように書いているものが福音書であったとするなら、フィクションの作り話だということで、早々に怪しい新興宗教指定となっていたか、または文学として残っていたに過ぎないだろう。

しかし、多くの人が自分の命をかけてイエスの復活は伝えられ続けてきた。

福音書は今も全世界を駆け巡っている。

イエスは本当に復活されたのだ。

 

つまり、神の愛、狂おしい愛もまた、これはどこぞのお話ではなく、全ての人に向けられている愛なのであり、実在する愛だ。

それまでどのような人生を歩いてきたかによって与えられる愛ではなく、これから歩く道を与える愛だ。

もう一度、その愛に帰るクリスマスにしようと思う。