18 望みのあるうちに、自分の子を懲らしめよ。しかし、殺す気を起こしてはならない。

 

19 激しく憤る者は罰を受ける。たとい彼を救い出しても、ただ、これをくり返さなければならない。

20 忠告を聞き、訓戒を受け入れよ。そうすれば、あなたはあとで知恵を得よう。

21 人の心には多くの計画がある。しかし主のはかりごとだけが成る。

22 人の望むものは、人の変わらぬ愛である。貧しい人は、まやかしを言う者にまさる。

23 主を恐れるなら、いのちに至る。満ち足りて住み、わざわいに会わない

24 なまけ者は手を皿に差し入れても、それを口に持っていこうとしない。

25 あざける者を打て。そうすれば、わきまえのない者は利口になる。悟りのある者を責めよ。そううすれば、彼は知識をわきまえる

26 父に乱暴し、母を追い出す者は、恥を見、はずかしめを受ける子である。

27 わが子よ。訓戒を聞くのをやめてみよ。そうすれば、知識のことばから迷い出る。

28 よこしまな証人は、さばきをあざけり、悪者の口は、わざわいをのみこむ。

29 さばきはあざける者のために準備され、むち打ちは愚かな者の背のために準備されている。

 

激しく怒る。

自分で自分のことを恥ずかしく思うが、私は激しく怒る者で、その怒りによって人を動かしてきたところがある。

それが私にある問題の根っこの一つであるのかも知れない。

怒りで人を動かすのではなく、愛をもって指導すること、動かすこと。動かすというより、動いてくれるだろうなあ、愛をもってすれば。それが知恵、ということでとりあえずは良いだろう。

 

今日のみことばからは、他にももっと実践すべきところはあるのだが、あまりに多くをやると言ったって出来ない。

だから今日は、愛をもって指導する指示をする、育てる。ここに留意していきたい。

 

今年もクリスマスが来た。

教会はこの時期、やたらと忙しくなる。

 

妻がYouTubeでその昔在籍していた米国教会での昨年のクリスマス礼拝の様子を見ていたので一緒に見た。

YouTubeからのリコメンドが表示されたので、また別の米国の教会のものも少し、また別の教会も少し・・・

 

賛美になりメッセージになりにあらわれて、どの教会にも共通していたことは、伝えよう、ということだ。

このクリスマス、私には大した能力もないのだけれど、今の自分の立っているところで、イエス様は生まれたこと、死んでくれたこと、よみがえられたこと、それはあなたのためだよ、ということを話せるとよいなと思う。

 

クリスマスは聖書には特に触れられていないイベントだが、楽しい楽しいものである意味は、きっとイエス様のことを知らない人に知ってもらうためのミニストリーなのではないかと思った。

そういう目線でクリスマスを見てみると、なんとも壮大で祝福されたミニストリーだろうか。

私も私になりのクリスマスということで、このミニストリーに参加したいと思う。

 

イエス様は神が人となられた方。王の中の王、全能者。

しかし、お生まれになったのは衛生環境すら怪しい馬小屋だ。

そして、十字架の上で亡くなられた時、その頭の上の罪状書きには「ユダヤの王、ナザレのイエス」という言葉書かれていた。もちろんそこには尊敬などなく、むしろ屈辱を与えるために書かれたものだ。馬鹿にされたのだ。最も低いところで生まれ、最も低いところで亡くなられたお方。

 

しかし、イエス様はその死の後、よみがえられた。イエス様は神であられること、ユダヤ人どころか全人類、全世界の支配者であることを証してくださった。

 

信じれば救われる。感謝して受け取れば救われる。

どんな行いをしてきた人でも、どんなに低いところで生きている人も、その人らがどのような人生を送ってきたかとか、行動してきたからではなく、ただ、神が愛しておられるからという理由で、救われる。

救われるとはつまり、イエス様と共に復活する力を与えられるということと同義だ。

人は一度死ぬけれど、信じる者はやがて物理的によみがえる。これが救いであるが、今、生きている人生においても、その救いは及ぶ。

 

ヨハネの福音書3:16

神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。

 

第一ヨハネ4:9-10

神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

 

エペソ人への手紙2:8

あなたがたは、恵みにより、キリストを信じることによって救われたのです。しかも、そのキリストを信じることすらも、あなたがたから自発的に出たことではありません。それもまた、神からの賜物です。 救いは、私たちの良い行いに対する報酬ではありません。