18 妻たちよ。主にある者にふさわしく、夫に従いなさい。
19 夫たちよ。妻を愛しなさい。つらく当たってはいけません。
20 子どもたちよ。すべてのことについて、両親に従いなさい。それは主にあって喜ばれることだからです。
21 父たちよ。子どもをおこらせてはいけません。彼らを気落ちさせないためです。
22 奴隷たちよ。すべてのことについて、地上の主人に従いなさい。人のごきげんとりのような、うわべだけの仕え方でなく、主を恐れかしこみつつ、真心から従いなさい。
23 何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい。
24 あなたがたは、主から報いとして、御国を相続させていただくことを知っています。あなたがたは主キリストに仕えているのです。
25 不正を行う者は、自分が行った不正の報いを受けます。それには不公平な扱いはありません。
パウロは、人としてあるべき姿をコロサイの人たちに示しているが、これは、一般的に言われる”まともな人”の姿と共通する点が多いと感じる。
ただ、今の時代に、妻たちは夫に従いなさい、とか、子供たちは両親に従いなさい、とかはあれこれ言う人もいるだろうなとは思う。
また、奴隷たち、となっているが、これも今の時代にはそぐわない。
ただこれは、労働者たち、雇われている人たち、という風に言い換えることは出来る。
だから、これは雇われている会社であるべき態度と意訳した。
一般的な、良い家族の一員、良い会社員でいることで、そんなに大きくは間違いではないことがわかるが、パウロは、それはキリストに仕えている者として、と集約する。
そして、それがどのような身なのかと言えば、御国を相続するほどの身なのだよ、と。
王子様とか皇太子みたいなものだ。
だとすると、もっと何か崇高・ハイレベルな人でいてよいのでは、とも思うのだが。
このことは、この世では、ストレスがかかったりすることもあるだろうが、良い人でいなさいよ、という風に聞こえる。
そして、不正を行う者はその報いを確実に受けることを釘さしているのだが、これはいわゆる罪の刈り取りという意味でのことか。
私は、良い人でいるための戒めと捉えた。
ということで、今日は、良い人でいること、という漠然としたお示しだ。
今日は家内が海外出張から帰って来るので、ねぎらいの一言でもかけてやるか、何か用意しておいてやるか、とにかく、家内を大事にするということで、良い人になろう。
今晩からは、色々とまた細かい事を言われることになる日々に戻るのだが、私は御国を相続するのだから、それくらいのことは、はいはいと機嫌よく応対しておこう。