1 ああ。反逆と汚れに満ちた暴力の町。
2 呼びかけを聞こうともせず、懲らしめを受け入れようともせず、主に信頼せず、神に近づこうともしない。
3 その首長たちは、町の中にあってほえたける雄獅子。そのさばきつかさたちは、日暮れの狼だ。朝まで骨をかじってはいない。

4 その預言者たちは、ずうずうしく、裏切る者。その祭司たちは、聖なる物を汚し律法を犯す

5 主は、その町の中にあって正しく、不正を行わない。朝ごとに、ご自分の公義を残らず明るみに示す。しかし、不正をする者は恥を知らない。

6 わたしは諸国の民を断ち滅ぼした。その四隅の塔は荒れ果てた。わたしが彼らの通りを廃墟としたので、通り過ぎる者はだれもいない。彼らの町々は荒れすたれてひとりの人もおらず、住む者もない。

7 わたしは言った。「あなたはただ、わたしを恐れ、懲らしめを受けよ。そうすれば、わたしがこの町を罰したにもかかわらず、その住まいは断ち滅ぼされまい。確かに、彼らは、くり返してあらゆる悪事を行ったが。」

8 それゆえ、わたしを待て。―主の御告げ―わたしが証人として立つ日を待て。わたしは諸国の民を集め、もろもろの王国をかき集めてさばき、わたしの憤りと燃える怒りをことごとく彼らに注ぐ。まことに、全地はわたしのねたみの火によって、焼き尽くされる。

 

神様なんていないもの、として生きる人が大勢を占めてきたエルサレムに対して、怒り御手を振り下ろされようとしている神様ですが、そこには救いがあることが明言されています。

 

その救いを受けるには、

「ただ神様を恐れて、懲らしめを受ける」ことにあります。

そうすれば、あらゆる悪事を行ってきた者も、神様の庇護下に入るという宣言です。

 

この預言は、バビロニアがエルサレムに迫る状況の中でなされているものですが、やがてエルサレムが征服される時も、ただ神様を信じて待てということなのかなあ、と想像しました。

 

これは、神様に立ち返るチャンスの時、と言えるのかも知れません。

苦しみは、神無き生き方には苦しみでしかありませんが、神様がそこにおられます。

それは、懲らしめである可能性もあり、言い換えるなら希望です。

 

私はクリスチャンです。私の主はイエス・キリストです。

それならば、チャンスはもう要らないのかと言えば、そうではないように思います。

 

神様は、アダムとエバに罪が入ったその時から、人を救うご計画を発動されています。

そのご計画とは、裁きの日に、信じる者すべての者を、神様が良しとされてあの罪なきアダムとエバがいた楽園(と同じようなところ)に招き入れるというご計画で、これがいわゆる天国なのだと思っています。

 

では、その救済を受けるために神様を信じるとは、死ぬ前の儀式で成立するのでしょうか。

私はこの辺、ちょっとよくわからないのですが、信じることはそんなに簡単ではありません。ただ、死の恐怖もそんなに軽いものでもありませんから、確かに信じることが出来る機会とも言えます。

 

私のようなまだ死に直面せずに生きながら、信じているクリスチャンはどうなのでしょうか。

イエス様は

「天国はあなたがたのただ中にある」

と言われました。

 

今日のみことばから、このことを大事にしないといけないなと改めて思いました。

死ぬ直前にになって悔い改めて神様を信じることは素晴らしいことだとは思いますが、その前から悔い改めて信じているクリスチャンの心の中では天国が実現しているのであって、この世界がどうあれ、苦しみに打ちひしがれていても、神様がおられるという物理性を確信し続けること。そして、自分の心に実現される神がおられる楽園、つまり霊性を保ち続けることによって、救いはもちろんですが、必要を覆いつくして余りあるめぐみが注がれるということだと、私は思います。

 

こうしてみると、クリスチャンにとって信じることとは、権利というよりも義務です。

自称クリスチャンでも、聖書を哲学書や神話としてしかとらえなければ、心の中に楽園が築かれることは無いと思います。

私は自分自身がそういう自称クリスチャンになってしまわないように、本当に”信じきる”クリスチャンでいることが出来るように、まずはしっかり自分を見張っていく必要があると思っています。

 

目の前でどんな破壊や破滅的出来事が起こったとしても、そこには神様がおられるということを固く心に置いて、今日も生きたいと思います。