17 耳を傾けて、知恵のある者のことばを聞け。あなたの心を私の知識に向けよ。
18 これらをあなたのうちに保つなら、楽しいことだ。これらをみな、あなたのくちびるに備えておけ。
19 あなたが主に拠り頼むことができるように、私はきょう、特にあなたに教える。
20 私はあなたのために、勧告と知識についての三十句を書いたではないか。
21 これはあなたに真理のことばの確かさを教え、あなたを遣わした者に真理のことばを持ち帰らせるためである。
22 貧しい者を、彼が貧しいからといって、かすめ取るな。悩む者を門のところで押さえつけるな。
23 主が彼らの訴えを弁護し、彼らを奪う者のいのちを奪うからだ。
24 おこりっぽい者と交わるな。激しやすい者といっしょに行くな。
25 あなたがそのならわしにならって、自分自身がわなにかかるといけないから。
26 あなたは人と誓約をしてはならない。他人の負債の保証人となってはならない。
27 あなたに、償うものがないとき、人があなたの下から寝床を奪い取ってもよかろうか。
28 あなたの先祖が立てた昔からの地境を移してはならない。
29 じょうずな仕事をする人を見たことがあるか。その人は王の前には立つが、身分の卑しい人の前には立たない。
クリスチャンになる前は絶対にそんなことはしなかっただろう、と思うのは、教会のクリスマスイベントの演劇である役を演じたことです。
お誘いを受けていやいややるのではなく、喜んで、という気持ちで出来たことは嬉しい事でした。
あの時、私を誘ってくださった姉妹は、どうして私を選んでくれたのかわからないのですが(既に召されました)、それはきっと神様からのみちびきであったのだなあ、と思えます。
私のセリフにこのみことばありました。
「この小さい者にしたことはわたしにしたのです。」
まだほとんどみことばについてよく覚えもしない頃のことだけに、余計にこれが心に貼りついています。
教会内での兄弟姉妹たちに対して、愛のある行動をもって接する、という意味あいで、このみことばを適用していこうというメッセージを複数回聞きました。
神学的にはそういうことなのかなと思います。
しかし今日のソロモンの箴言からの適用でこのみことばの助けを借りるなら、クリスチャンではない弱い者に対する愛のある行動、と捉えてよいものだと思います。
そうすると、弱い者の弁護者は神様ご自身であり、イエス様は「わたしにしたのです」と言うほどですから、神様の裁きの前にあっては、弱い者は神様ご自身だとして向き合うべき対象としてもよいほどです。
悪い癖かも知れませんが、私は善行の動機を神様からの報酬目当てにすることが好きです。
「救い」「めぐみ」はよく教会でフォーカスされますが、「報い」についてはやや危険な要素もあるのか、あまり聞くことはありません。
しかし聖書には明確に神様からの「報い」に関するみことばがいくつも並んでいます。
神様からの見返りを期待した善行なんて、偽善と言えば偽善です。
しかし、それは十二分に行動を起こす動機になり得るものですし、もしかしたら、本当の善者に変えられるための一歩なのかも知れません。
イエス様にあって大いに偽善者となり、御国への階段を一段上がりたいと思います。