王の心は主の手の中にあって、水の流れのようだ。みこころのままに向きを変えられる。
2 人は自分の道はみな正しいと思う。しかし主は人の心の値うちをはかられる。
3 正義と公義を行うことは、いけにえにまさって主に喜ばれる。
4 高ぶる目とおごる心―悪者のともしびは罪である。
5 勤勉な人の計画は利益をもたらし、すべてあわてる者は欠損を招くだけだ。
6 偽りの舌をもって財宝を得る者は、吹き払われる息のようで、死を求める者だ。
7 悪者は自分の暴虐に引きずられる。公義を行おうとしないからだ。
8 罪人の道はねじれている。しかし、きよい人の行いはまっすぐだ。
9 争い好きな女と社交場にいるよりは、屋根の片隅に住むほうがよい。
10 悪者のたましいは悪事にあこがれ、隣人をあわれもうとはしない。
11 あざける者が罰を受けるとき、わきまえのない者が知恵を得る。知恵のある者が学ぶとき、その人は知識を得る。
12 正しい人は悪者の家を見抜く。悪者どもは自分の悪事のために滅ぼされる。
13 寄るべのない者の叫びに耳を閉じる者は、自分が呼ぶときに答えられない。
14 ひそかな贈り物は怒りをなだめ、ふところのわいろは激しい憤りをなだめる。
今日も線だらけなのですが、”心の値打ち”と”正義と公義”について、思いを巡らせました。
心の値打ちというのは、何を大事にしているのかという価値観に近いものだと思うのですが、主は心を見られる、と言われるそのままのことをソロモンは言っているようです。
しかし、その前置きとして「人は自分の道はみな正しいと思う」とされていますから、自分の目線ではなく、神様の目線で自分自身を絶えず見直せ、と解釈します。
そのみことばの直後に、
”正義と公義を行うことは、いけにえに勝って主に喜ばれる”
とあるのは、私にとっては、神様目線での自分の見直しをより一層求めてきます。
今月、諸事情でお金をなかなか動かせなくて、十一献金をしていません。
また、仕事関係の事情が重なって、自分が所属する教会の礼拝やそのスモールグループにも参加出来ていません。
こういうことを気にしているのですが、まさにこれを神様目線で見つめなおすと、もっと大事なことがあると言われている気がしてなりません。
神様はお金に困っている方でもなく、教会に住んでおられるわけでもありません。
イザヤ書に、”わたしが喜ぶ断食とは”からはじまる預言があります。
食事を絶って空腹になることではなく、今日のみ言葉にもある通り、”寄るべのない者の叫び”に耳を開いて救済のための行動を起こすことだと言われます。
礼拝で皆で歌う信仰の形、賛美についてもこんな事を言われる箇所があります。
”あの歌の騒ぎはなんだ”という。
人それぞれ召しがあって、社会的な活動の召しを受けている人は、映画「マシンガンプリーチャー」の題材にもなった牧師さんのような活動に極まっていくことがあります。
今は教会時代が続いています。だから、教会での奉仕活動に召される人も大勢いますから、社会活動が良いのか、教会活動が良いのかとか、そういう議論は不毛だと思います。
その召しによる活動の大前提が、正義と公義を世に行うこととすれば、チルダース牧師のように目立つ活動になる場合もあれば、しんどそうにしている方に「大丈夫ですか」と声をかけるというような細やかな活動である場合もあり、それらは神様にとってどちらも喜ばれる価値であり、心だと思うのです。
つまり、今日すぐに行える神様に喜ばれる活動は、誰にも存在しているということです。
私は、そういうメッセージと受け取りました。
教会習慣とでも言いましょうか、奉仕や献金を含めた教会活動というのは習慣化してルーティンとなり、信徒ではない人の動きとは違うものですから、知らず知らずのうちに、神様を信じるという面でのお守りとかお札のようになっていく気がします。
信仰を保っていく、神様との接点を増やしていくと言う点で、そのことは私は良い事だと思っています。
しかし、いつもそこに心が伴っていることが大事で、それが無ければいつしか渇いていくものだとも思います。
その心は、イエス様がただ説教師であられただけではなく、行動の神であったように、見える形、つまり公義に表していくことも出来るわけです。
その規模の大小は関係ありませんし、場合によっては、良心でするのかどうかもあまり関係無いのかも知れません。
ただ、神様が喜ばれるから、という理由でそれを行うところに、必要な能力や機会を含めためぐみが注がれるものだと思います。
今日私はどんな公義を世に示せるか、機会と自分に期待し、神様からの報酬もまた期待したいと思います。