1 ぶどう酒は、あざける者。強い酒は、騒ぐ者。これに惑わされる者は、みな知恵がない。
2 王の恐ろしさは若い獅子がうなるようだ。彼を怒らせる者は自分のいのちを失う。
3 争いを避けることは人の誉れ、愚かな者はみな争いを引き起こす。
4 なまけ者は冬に耕さない。それゆえ、刈り入れ時に求めても、何もない。
5 人の心にあるはかりごとは深い水、英知のある人はこれを汲み出す。
6 多くの人は自分の親切を吹聴する。しかし、だれが忠実な人を見つけえよう。
7 正しい人が潔白な生活をするときに、彼の子孫はなんと幸いなことだろう。
8 さばきの座に着く王は、自分の目ですべての悪をふるい分ける。
9 だれが、「私は自分の心をきよめた。私は罪からきよめられた」と言うことができよう。
10 異なる二種類のおもり、異なる二種類の枡、そのどちらも主に忌みきらわれる。
11 幼子でさえ、何かするとき、その行いが純粋なのかどうか、正しいのかどうかを明らかにする。
12 聞く耳と、見る目とは、二つとも主が造られたもの。
13 眠りを愛してはいけない。さもないと貧しくなる。目を開け。そうすればパンに飽き足りる。
14 買う者は「悪い、悪い」と言うが、買ってしまえば、それを自慢する。
今日も神様からのチャレンジを受けるようなみことばが並ぶのですが、仕事への姿勢の面で2つ。
4 なまけ者は冬に耕さない。それゆえ、刈り入れ時に求めても、何もない。
13 眠りを愛してはいけない。さもないと貧しくなる。目を開け。そうすればパンに飽き足りる。
業績がなかなか改善を見ない中で、単純に、明確に、その答えがここにあるのだと思いました。
私の仕事に対する姿勢のことです。
冬に耕す、とは、すぐに実が収穫出来るわけではないが、その準備として必要な工程、期間のことで、これを怠っているのだ、ということ。
もう一つは、眠りを愛していること。
これは字義通りに捉えずに、あえて仕事をしないことを愛する、と捉えますが、そういうところがあります。
適用としては簡単で、怠けない、ということです。
それは、自分の心がけとか価値観ではなく、神様がこうして語り掛けてくださるのですから、主にあって怠けない、ということになります。
人は習慣を改めたり、性格を変えたりすることは難しいと思います。
しかし、何か自分にとってとても大切なものを見つけて、それを放したくないという強い思いが芽生えると、大切なものを守るという目的の下で、習慣や性格に変化が起きることもあるのではないでしょうか。
とても大切なものは、いくつか並び立つことはありません。
これが、「二種類のおもり」であれば、とても大切で失いたくないものではなく、どっちかが残ればいいかな、というものと言えるのかも知れません。
私にとって最も大切なものが、JESUSであるとは言えます。
心の中でも本当にそうなんです。
パウロは、
自分が本当にやりたい良い事を行うのではなく、むしろ憎む悪を行っている。
それを行わせるのが自分の中にある罪だ、と。
そして、そんな自分を惨めであると言いました。
JESUSが最も大切であって、JESUSに喜ばれることをしていきたいと願う一方で、悪の行いが表面に出てくるのです。
その中に、怠けもあるのかも知れません。
言わば霊的な構造原理として、やはり福音というのは、だから今も必要なのだとわかる気がします。
永遠のいのちをくださるのなら死ぬ直前に信じればよいではないか、と言われたことがありますが、そういうものではないということです。
JESUSの救いは、今すぐにも必要で(有益で)ある理由は、こういうJESUSとは違うもう一つの重りである罪を排除するものだからです。
惨めな人生を歩まないため、とも言えます。
もちろんそれは、神様からのめぐみの一部分でありますが、罪から逃れて生きる道は人が選び取るものです。その選択が毎日必要ということだと、これは私でも確信が持てます。
ここでまた別意で、冬に耕す者、を思います。
すぐには実りが獲得出来ないものなのかも知れません。
しかしそれでも、毎日福音を受け入れて、毎日JESUSに喜ばれることを選択して、そうしていくうちに、少しずつ変えられていくのだと思います。
あのパウロもそうです。アブラハムだって、ダビデだってそうです。箴言の著者ソロモンもそうなのでしょう。