20 みことばに心を留める者は幸いを見つける。主に寄り頼む者は幸いである

21 心に知恵のある者は悟りのある者ととなえられ、その快いことばは理解を増し加える。

22 思慮を持つ者にはいのちが泉となり、愚か者には愚かさが懲らしめとなる。

23 知恵のある者の心はその口をさとし、そのことばに理解を増し加える

24 親切なことばは蜂蜜、たましいに甘く、骨を健やかにする

25 人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である

26 働く者は食欲のために働く。その口が彼を駆り立てるからだ。

27 よこしまな者は悪をたくらむ。その言うことは焼き尽くす火のようだ

28 ねじれ者は争いを巻き起こし陰口をたたく者は親しい友を離れさせる

29 暴虐の者は自分の隣人を惑わし、良くない道へ導く。

30 目くばせする者はねじれごとをたくらみ、くちびるをすぼめている者は悪を成し遂げた者だ。

31 しらがは光栄の冠、それは正義の道に見いだされる

32 怒りをおそくする者は勇士にまさり、自分の心を治める者は町を攻め取る者にまさる。

33 くじは、ひざに投げられるが、そのすべての決定は、主から来る

 

今日もまたたくさんのアンダーラインとなりました。

 

やはり私には、課題としている、何を喋るか、どう喋るのか、どの程度の量を喋るのか、について、気になります。

 

悪者の特徴としてソロモンがあげるのは、

・言葉が焼き尽くす火のようであること

・陰口を叩くこと

・争いを巻き起こすこと

などです。

 

これら、私は自分自身に、全く無いことか?、とたずねると、いや時々ある、と答えなければならないと思います。

 

特に、陰口を叩くことに関しては、私自身がそれを言い出すというよりも、誰かを話をしていく中で、まるでネタのようにそうなってしまっていることがあります。

それは、意図してやめていくべきだと思います。

 

人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である

 

というみことばは、再登場ですね。

「人の目」には限界があること、錯覚があることを示しているようです。

 

神様が正しい者とされる基準と、世の中での基準には違いがあるのは明白ですが、それでも世の中の基準に流されてしまうことがよくあります。

 

私が特に多いのは、先の争いについて。

クリスチャンになってからも、みことばでははっきりと”争うな”と言われるのに、様々な解釈の下で、争うことを肯定して、自分の感情=人の目を聖書的などとして肯定することに必死でした。

まっすぐに見える道、を創作してしまっていた気がします。

 

しかし、今回箴言を読んで、自分の口に確かに悪があることははっきりとしました。そして、それを取り除くことが、自分を変えることであると確信しています。

もちろん、それは自分で出来ることと言えば、そういう意図とか決意のレベルであり、実現させるためには信仰の働きが絶対に必要で、聖霊様の傾注を祈ります。

 

昨日、リモートで会社のミーティングに参加しましたが、早速そういう働きが感じられることがあり感謝しました。

今までの私なら、強い言葉で封じ切るような場面がありましたが、むしろ柔和な言葉を使うことで、物事を前向きに進めることに成功したと思います。

 

今日も、そういう感情的な面を大事にするということで、

怒りをおそくする者は勇士にまさり

 

というみことばを適用したいと思います。

 

私が神様との関係を回復させ、永遠のいのちを頂けるのは、イエス様があのゲッセマネで恐れを鎮められたこと、法秩序の無い裁判の怒りに燃えて民衆を屈服させるようなことをされなかったこと、つまり、ご自身の感情よりも神様のみこころを優先されたからだと思っています。

そして、十字架にかかってからは父なる神に拒絶されるという苦しみを通ってくださいました。

そして、最後にはご自分のいのちを捧げられましたが、その後、復活してくださいました。

 

怒りを遅くするとは、神様に物事を委ねることであると共に、一見すれば最悪の出来事である「死」に至ったとしても、そこに至る道が神様の道であれば、最善どころの話ではない「復活」という究極の勝利にあずかれるという、期待、希望のあることだと考えます。

 

怒りをおそくすること、感情を先立たせないこと。

この知恵を生かした一日にしていこうと思います。