1 知恵のある女は自分の家を建て、愚かな女は自分の手でこれを壊す。
2 まっすぐに歩む者は、主を恐れ、曲がって歩む者は、主をさげすむ。
3 愚か者の口には誇りの若枝がある。知恵のある者のくちびるは身を守る。
誇る者:愚か者⇔身を守る唇=誇らない
4 牛がいなければ飼葉おけはきれいだ。しかし牛の力によって収穫は多くなる。
5 真実な証人はまやかしを言わない。偽りの証人はまやかしを吹聴する。
6 あざける者は知恵を捜しても得られない。しかし悟りのある者はたやすく知識を得る。
あざける者は知恵を得ることが出来ない⇔あざけらない→知識を得る
7 愚かな者の前を離れ去れ。知識のことばはそこにはない。
8 利口な者は自分の知恵で自分の道をわきまえ、愚かな者は自分の愚かさで自分を欺く。
9 罪過のためのいけにえは愚か者をあざけり、正しい者の間には恩恵がある。
10 心がその人自身の苦しみを知っている。その喜びにもほかの者はあずからない。
11 悪者の家は滅ぼされ、正しい者の天幕は栄える。
12 人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。
13 笑うときにも心は痛み、終わりには喜びが悲しみとなる。
14 心の堕落している者は自分の道に甘んじる。善良な人は彼から離れる。
15 わきまえのない者は何でも言われたことを信じ、利口な者は自分の歩みをわきまえる。
16 知恵のある者は用心深くて悪を避け、愚かな者は怒りやすくて自信が強い。
昨晩は幼馴染の友人と会食をしたのですが、盛り上がることと言えば、共通の友人の悪口でした。
悪口と言っても、あまり真剣なものではないのですが、そういうことを言わないと、いまいち盛り上がらないというのは、今日のみことばにその理由が隠れている気もします。
世の中の楽しみとか正しさは、時々は、いやかなり多くの事について、神様を信じている者にとっては避けた方が良いものです。
盛り上がる軽い悪口も避けるべきでした。
誇る、自信がある、ということも愚か者の特徴として挙げられています。
自信がありそうに見えて、自分の事を肯定的に語るようなタイプの人は、今の世の中悪く言われるような人ではありません。
もちろん、行き過ぎたら馬鹿にされますが、ビジネス系の本を書く人や大きな企業の社長さんなどは、そういう人ばかりです。
しかし、巨万の富と世界覇権を手に入れたソロモンは、それを愚か者の特徴と言います。
なぜなら彼は、神様を知っていたからでしょう。
手に入れてはみたものの・・・・ということです。
世で得られる最大級の富や地位は、神様に比べたら陳腐でくだらない者だと言う事なのかも知れません。
人の目にはまっすぐに見える道がある。その終わりは死の道である。
というみことばには、そういう世で受ける光栄の虚しさが凝縮されているように思いました。
では本当に進むべきまっすぐな道はどのようであるのかな、と考えます。
栄える正しい者の天幕とはどんなものか。
私が思うのは、永遠のいのちがあるということを確信して生きるということです。
イエス様が話された例え話で、タラントを預けられた者の話がありました。
主人が旅に出る前に、しもべに金額にするとものすごい額の金を預けます。
それを使って更に同じほどの金を儲けるしもべ、その金を地中に隠しておいて、主人が帰ってきたらちゃんと返したしもべがいましたが、主人は後者を罰しました。
この解釈は、与えられた賜物を生かして生きることを奨励するものでしたが、永遠のいのちもここに適用することも出来ると思います。
イエス様は、帰って来られますから、その時に与えてくださった永遠のいのちをどう使ったかをたずねられるのかも知れません。
というより、永遠のいのちがある者として生きたかどうかを問われるということになります。
パウロは、自分のレースを一心不乱に走ると言いました。
そして、肉体の死を恐れで受け止めるのではなく、むしろ楽しみであるとすら言いました。
パウロは一例ですが、タラントならぬ永遠のいのちをどう使ったかの印だと思います
。
救いは、どう生きたかに関係なく、信仰によって与えられるものですから、それとは違う次元の話と言えます。
しかし、その救いを強い好意とか愛情とか喜びで私に与えてくださっている神様が喜ばれるように生きること、そう生きようと意を決することは、自然な心の動きだと思います。
それは、金持ち自慢、力自慢で生きるのではなく、この箴言で言われるような知恵者として生きることであるように思えます。
たとえ、世間ではつまらないヤツだと言われたとしても、それを覆って余りある神様のめぐみが波のように押し寄せる人生。
そして、その人生の辿り着くところは死の道ではなく、いのちの道、永遠のいのちです。
こうして考えいると、新しい力が湧き出てきます。