1 知恵のある子は父の訓戒に従い、あざける者は叱責を聞かない。

2 人はその口の実によって良いものを食べ、裏切り者は暴虐に食べる。

3 自分の口を見張る者は自分のいのちを守り、くちびるを大きく開く者には滅びが来る

4 なまけ者は欲を起こしても心に何もない。しかし勤勉な者の心は満たされる。

5 正しい者は偽りのことばを憎む。悪者は悪臭を放ちながら恥ずべきふるまいをする。

6 正義は潔白な生き方を保ち、悪は罪人を滅ぼす。

7 富んでいるように見せかけ、何も持たない者がいる。貧しいように見せかけ、多くの財産を持つ者がいる。

8 富はその人のいのちの身代金である。しかし貧しい者は叱責を聞かない。

9 正しい者の光は輝き、悪者のともしびは消える。

10 高ぶりは、ただ争いを生じ、知恵は勧告を聞く者とともにある。

11 急に得た財産は減るが、働いて集める者は、それを増す。

12 期待が長びくと心は病む。望みがかなうことは、いのちの木である

 

今日も大きく2つのポイントについて指摘を受けていると思います。

 

叱責と口→言葉。

昨日のこと、とある若手の社員から、とあることで注意を受けました。

不公平ではないか、というものでした。

私はその人をあまりよく知らないし、年齢が私よりもかなり下ということで、なんだか頭に来ました。

普段であれば良くても無視、最悪はキレてパワハラ状態になるところでした。

しかし昨日は感謝なことに、キレることをぐっと踏みとどまって、まずはその人との関係を作ることに頭を切り替えることが出来ました。

 

若手社員とは冷静な会話で、不公平と感じたところについて話をすることが出来、確かにそう感じても仕方ないということを私は理解し、彼もその件の経緯を知ったことで不満は取り去られたようでした。

私としては50歳にしてやっとそういう対応(→冷静)が出来たことを喜びました。

 

箴言からは言葉について何度も指摘があり、さすがにここまで継続的にあると、私もようやくそれを深部で捉えはじめているようです。

単なる注意事項ではなく、今私に必要なものを神様が用意してくださっているということを感じます。

また、実践においては霊的な働きがやはり必要なものですね。

 

昨日の出来事を振り返ってみると、叱責と言葉は関連性があります。

若手社員は私を叱責したわけではありませんが、内心はそういう気持ちであったことは容易にわかります。

それに対して私が良い気持ちがしたかどうかと言うと、それはもう心の中で盛大にキレていました。

聖霊様の働きがあって冷静な対応出来たのですが、私がもし叱責を愛する者であったなら、きっと心でキレることなく冷静に受け止めることが出来たと思います。

 

人は叱責を愛するなんて出来ないものだという観念もありますが、全ての事が神様からのチャレンジなのだと受け止めていけば、昨日のような形の経験を経て変えられていくかも知れないなと期待出来ます。

まずは、言葉について少しの前に進んだ気がして、これについては嬉しいです。

レベルの低い話ですが。

 

あのソロモンがそう言うのです。

今日のみことばの後節で、「高ぶりは、ただ争いを生じ、知恵は勧告を聞く者とともにある」と言っています。

結局、根底にある問題は、高ぶりなのです。

そして、さらにみことばはつながりを持っていて、高ぶりというのは偽物の財産のようなもので、それは「富んでいるように見せかけ、何も持たない者」という点で、私はここに該当してくる性質を持つ者であることを自覚させられます。

 

だからこそ、神様はきっと変えてやろうとしてくださっていると思います。

叱責は嫌です。でも愛する者になるようにします。

言葉は汚いです、粗暴です。でも聖霊様によって変えられることを期待してがんばってみます。

すぐに高ぶる人です。でも神様が変えてやろうとしてくださるから、やはり期待してがんばります。

 

クリスチャンの人たちは「がんばる」という言葉があまり好きではないのですが、私はがんばるというのは、一つの心の方向性を神様の意図に合わせていくというニュアンスで結構がんばります。受取行為に近いですね。それで私には精一杯、実際に物事を成してくださるのは神様ですイエス様です聖霊様です。