14 こういうわけで、私はひざをかがめて、
15 天上と地上で家族と呼ばれるすべてのものの名の元である父の前に祈ります。

16 どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように

17 こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、
18 すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、
19 人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。

20 どうか、私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方に、
21 教会により、またキリスト・イエスにおり、栄光が世々にわたって、とこしえまでありますように。アーメン。

 

イエス様の広さ、長さ、高さ、深さ。

 

広さについては、これはもう全世界、全人類ということでしょう。

長さについて、永遠に。無限ということですねきっと。

高さもまた、無限でしょうか。天はお空にあるわけではありませんが、その見上げる方向のどこかにきっとあるのでしょう。イエス様は帰られる時、空に向かっていかれて、次に来られる時も空の方向からとありますから。

深さはちょっと難しいですね。物理的深さと言うなら、地中深く、海中深くなのでしょうか。

 

イエス様を知っていくことは、最も重要なライフワークと言えますが、無限性を知的に理解することは、なかなか難しいことですね。

なぜなら人が有限であるからですが、これを有限→依存か無現→無依存かで考えると、受給者と提供者という差異は見えてきます。

 

人はその有限さゆえに、依存することでしかこの世での生命を維持することが出来ません。

いくら一匹狼を自称する人でも、空気・水・食料無しでは生きていけません。

空気や水は当然のモノ、としているうちは、やはり創造者イエス様の無限性もまたわからないということになります。

 

イエス様は創造主でもあられます。無から有をことばで操作されました。

人が生命体として生存していくための、あらゆる条件を創造されました。

その後に、人を創造されました。

つまりこれは、完全なる供給者であると言うことで、われわれ人は、完全なる受給者であるわけです。

まじめなお勤めによって見出される何かも、生命があってなんぼの話です。

 

そのイエス様が与えてくださるものの中の基礎の基は「愛」なんだよと、パウロは言っているように思います。

 

供給者と受給者の関係から、「愛」が最重要というところで色々と考えを巡らせてみました。

 

空気・水・愛とでも言いますか、ライフラインなんだと思いました。

もちろん、神様が見えない世界で生きているうちは、空気・水・電気あたりが重要になってきます。それくらいしか見えないと言うことも出来ます。

 

しかし、いつか私が帰るところ、イエス様が先に行って家を用意してくださっているところに行くためにも、暮らすにも、イエス様からの愛が必要なのだと、とりあえず現時点では、そういうところに辿り着きました。

 

やはり今は見えないのですが、その愛は、実は今でも注がれているということをわかれよと、そういうメッセージである気もしました。

 

ある大先輩クリスチャンの方に、「平和を作る者は幸いとイエス様は言われるから、私は戦いを放棄します」というような事を言ったら、そういうことではない、と言われたことがあります。

 

なんでもかんでもゆるして抵抗するな、と言われているのではない、ということを教えられたように思います。

右の頬を打たれたら左を差しだせ、についても、当時の私の理解はそのままの理解で、殴られても仕返しせずもっと殴れよと言う事だなあ、なんて思っていました。

 

大先輩もそうですし、牧師先生も確か、そういうことではなくて・・・という解釈を与えてくれたこともあったかと思いますが、私は今日、イエス様の愛、与えてくださる愛を深く考えていると、やはり、そのみことば通りで良いのではないか、と、思いました。

 

実のところ、私は臆病そのものの人間で、戦うことが怖いと思っている者です。

だから、痛めつけるよりも痛められないことがいつも重要ですし、ディベートよりも相手意見に同意する方が良いのです。

 

しかし、この世はそれを許しません。

何か悪い事をやられたとしたら、やられた側はなんらかの形でやり返すか糾弾するか、そういう抵抗を示すことが正しいとされるところがあります。

自分の意見をしっかり持って、それを相手に合わせて変化させるより、貫き通すことを美徳とするようなところもあります。

 

私はそういうのが、本当に苦手なのです。

右の頬を叩かれて左もやれよと差し出すことを「従うことが困難」と言う人って結構いますが、私は、やり返すくらいなら左頬を出す方が容易です。

もちろん、全てのケースがそうとは限りませんが。

とにかく、戦いたくないのです。気が小さいのです。

 

実に変な感じですが、私はそういうところで、イエス様の愛を感じ取ることが出来ます。ふと、思ったことです。

 

今日は、無理に適用を考えるより、励ましのようなQTですね。