12 ですから、弱った手と衰えたひざとを、まっすぐにしなさい。
13 また、あなたがたの足のためには、まっすぐな道を作りなさい。なえた足が関節をはずさないため、いやむしろ、いやされるためです。
14 すべての人との平和を追い求め、また、聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を見ることができません。
15 そのためには、あなたがたはよく監督して、だれも神の恵みから落ちる者がないように、また、苦い根が芽を出して悩ましたり、これによって多くの人が汚されたりすることのないように、
16 また、不品行の者や、一杯の食物と引き替えに自分のものであった長子の権利を打ったエサウのような俗悪な者がないようにしなさい。
17 あなたがたが知っているとおり、彼は後になって祝福を相続したいと思ったが、退けられました。涙を流して求めても、彼には心を変えてもらう余地がありませんでした。
わかりやすいたとえであると思います。
道をまっすぐにすることは、歩きやすい、足にラク。
私はこのことを、道をシンプルにしなさい、と受け取ります。
それは、二心の者ではなく一心の者に、に通じるものです。私にとっては。
エサウの話が考察的に用いられています。
エサウは弟ヤコブに食べ物と引き換えに長子の権利を譲ります。
このことによって本来長子の祝福を受ける権利が無いヤコブがイサクから祝福を受けて正式な”跡継ぎ”となります。
私に限ってそんなことはしない、そのように思ってしまうのですが、今日、気づかされるのは、エサウがヤコブに祝福を譲る、と言ってからそれを後悔するまで、何年もの年月が経過していることです。
エサウという人物は、恐らく今で言うところの男らしいようなカッコイイような、そんな感じの人だったのかと思います。
イサクという父を持ちながら、神様への思いというのは習慣的でしかなく、一つの様式としてたしなんでいたようです。
だからこそ、お家の長男という型にも、神様からの祝福を受け継ぐという点においても、彼にとっては一つのはまるべき型のようなものであり、それにはそもそも興味がなく、どうでもよいものになっていたように思います。
だからこそエサウは、ヤコブの作った料理を食べるため、それだけの理由で、安易に「調子の権利と引き換えに」というような事を口走ったのだと思います。
深く考えていなかったのでしょう。何故なら、彼があの時に満たされたかったのは”腹”です。腹が減っていたから、ただそれだけの理由です。
腹が減ったから食べたいという、だたそれだけの生理的欲求に対し、調子の権利などは天秤にもかけずに軽はずみに口走ったことが、後々大変な後悔となります。
さて、道をまっすぐにする、とは、見通しの良い道を歩くこと、ではないかなと思います。
エサウが歩くメインの道路は、若い頃は、そういう生理的欲求を満たすことであったことがわかります。脇道に、親兄弟、神様がいたのではないかなと思います。
ですから、そういう点では、そういう欲求を満たしてくれる何かに対して非常に見通しの良い道であったかも知れません。
私はどうかと言うと、道がまっすぐではないのですね。
こうしてQTによってみことばを深く噛みしめている時、私の心はイエス様に向いています。
ところが、このQTが終わって仕事に戻ると、もうその道ではなく、違う道を歩き出します。
また、夜になって仕事が終わると、また別の道を歩いている。これが実情です。
実生活の中で、その時々にやるべきことが変わっていくのは当然のことですが、価値観や見つめているものまで変わってしまうのは問題であると、今日は神様からチャレンジを受けているようです。
道をまっすぐにしよう。そのヒントとして与えられるのは、全ての人との平和を追い求めることですが、イエス様をしっかりと見つめて、ということが超重要ポイントです。
若い頃のエサウのように、世を見て人を見て、軽はずみな考えとか何も考えずに欲の向くままに生きるのではなく、真剣に取り組むべきところです。
やがて後悔なんてしないように。