1 信仰は望んでいる事がらを保障し、目に見えないものを確信させるものです。

2 昔の人々はこの信仰によって称賛されました。

3 信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。

4 信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげ、そのいけにえによって彼が義人であることの証明を得ました。神が、彼のささげ物を良いささげ物だとあかししてくださったからです。彼は死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています。

5 信仰によって、エノクは死を見ることのないように移されました。神に移されて、見えなくなりました。移される前に、彼は神に喜ばれていることが、あかしされていました。

6 信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。

7 信仰によって、ノアは、まだ見ていない事がらについて神から警告を受けたとき、恐れかしこんで、その家族の救いのために箱舟を造り、その箱舟によって、世の罪を定め、信仰による義を相続する者となりました。

 

信仰とは何なのか、神を信じることとは、イエス様を信じることとは、ということを時々考えます。

そして、あなたをもっと信じたいです、という祈りもします。

 

今日のみことばは、信仰とは何か、それによって何が起きるかが明示されており、その点でとても心地よいものです。

 

信仰とは、目に見えないものを目に見えていることのように確信”させる”もの、とのこと。

信仰というのは聖書によると、大きく広い意味では、やはり神に与えられているものと言えると思うのですが、私個人から見える景色では、信じようという能動的な意思がなければならないように思います。

信仰告白、という言葉を頻繁にクリスチャンは使いますが、まさに、「イエス様は私の主です」という言葉を声に発することは信仰のあらわれで、信じようという意思がそこになければ、たとえ一人でも声に発することは難しいでしょう。

 

ただ、へブル人への手紙の著者が語るのは、目に見えないものを確信”させる”とあります。

まあこれは、翻訳者による言い回しの特徴なだけかも知れませんが、私個人には、信仰はそのはじまりに意思があるとは前述の通りですが、それが声に出すことで証明されて、後には聖霊の働きによってやはり確信になるのかな、と思うのです。

 

そうすると、信仰を持つということは、持ち始めると同時に確信がやってくることを保証しているというわけでもなく、同時な人もいるでしょうが、場合によっては時間がかかることもありそうで、それを思うと、信仰とはなんぞやと思うことやもっと信仰をと願って祈ることは、クリスチャンとしてアリなんだと、ややホッとします。

 

というのは、イエス様への信仰そのものには確信などのレベルはなく、ただ信じている、すがっている、泣きついているという一種の依存的な私からの重力がイエス様に対して延々と働き続けているわけですが、確信について自分を客観視すると、まだまだコンディショナルなものなのです。

 

私は聖書を歴史の教科書感覚で読みますが、創世記1:1からいきなりのチャレンジのようなものです。

「はじめに神が天と地を創造した。」

 

私はこれを信仰によって、信じることには既に成功しています。

この天も地も、水も空気も動植物すべては、神がお創りになりました。

単細胞が分裂を繰り返すうちに突然変異が起こり、やがては植物や動物になって、魚が陸に上がり、人になったなどという話は、全く非科学的だと思います。単なる、創作された前提条件です。イデオロギーです。

 

ではこれが確信なのかと言えば、確信である時と、時々確信が揺らぐ時があるのです。

例えば、「〇〇億年前の〇〇の起源となった〇〇を発見」という話が、natureなどの有名ジャーナルをネタ元として記事にされている時などです。

そんなことあるわけない、と思えない時が正直あります。

 

イエス様の復活については、こういうものに惑わされることはありません。

何故かと言うと、イエス様が死なれてから復活したことは、議論にすらならないからです。

 

恐らく、クリスチャンと自称する人でもそこに確信が無い人は結構いるんじゃないですかね。そもそも「それは信じていない」という。キリスト教様式に生きる方々です。

しかし、キリスト教という宗教の根本を成しているものは、ヤマトタケルノミコトのようないわゆる神話でも伝説でもなく、史実です。※その信じ方では永遠のいのちは得られませんから、ぜひ考え直してください。

 

日本では世間的に、復活などは無かったということで議論の余地は無い、としているので、逆に確信が揺れないで済みます。

 

もちろん、両方とも事実であってこそ神の救いが成立するわけですから、私は揺るがぬ確信が必要なんです。

 

この難しさについても、今日のみことばは一点言及しています。

見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟る、と。

 

まさに。目に見えていたら信仰など必要ありません。

目に見えないから、信仰によって、悟りが必要ということです。

 

ああだこうだと考えて黙想していると、もう1.5時間以上このQTをしているので、私なりの今日の受け止めで締めたいと思いますが、

 

信仰は自発的であるのに対して、悟りや確信は与えらえるもの、と信じます。

もちろん、それを求めている前提です。

また重要なことは、報いがある、ということです。

「私は何も要りません、ただ神様がいてくさったらそれでいいんです」と言うとしたら、なんて謙遜な、と褒められるわけではない、ということです。

報いがある、ということも信じなければならない、というか、そうしなければ信じられないということなのかも知れません。

 

報いとは、確信そのものかも知れませんし、新しい生きる道が示されたりするのかも知れません。

いずれにしても、神の働きによってもたらされる最善の変化と期待していきたいと思います。