1 律法には、後に来るすばらしいものの影はあっても、その実物はないのですから、律法は、年ごとに絶えずささげられる同じいけにえによって神に近づいて来る人々を、完全にすることができないのです。

2 もしそれができたのであったら、礼拝する人々は、一度きよめられた者として、もはや罪を意識しなかったはずであり、したがって、ささげ物をすることは、やんだはずです。

3 ところがかえって、これらのささげ物によって、罪が年ごとに思い出されるのです。

4 雄牛とやぎの血は、罪を除くことができません

5 ですから、キリストは、この世界に来て、こう言われるのです。「あなたは、いけにえやささげ物を望まないで、わたしのために、からだを造ってくださいました。

6 あなたは全焼のいけにえと罪のためのいけにえとで満足されませんでした

7 そこでわたしは言いました。『さあ、わたしは来ました。聖書のある巻に、わたしについてしるされているとおり、神よ、あなたのみこころを行うために。』」

8 すなわち、初めには、「あなたは、いけにえとささげ物、全焼のいけにえと罪のためのいけにえ(すなわち、律法に従ってささげられる、いろいろの物)を望まず、またそれらで満足されませんでした」と言い、

9 また、「さあ、わたしはあなたのみこころを行うために来ました。」と言われたのです。後者が立てられるために、前者が廃止されるのです。

10 このみこころに従って、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけささげられたことにより、私たちは聖なるものとされているのです。

 

イエス様が死んでくださったことによる罪に赦しとは、根本的に律法に定められたシステム的な赦しとは異なることがわかります。

律法が無駄なわけではなく、そこには、神がどのように罪を赦されるのかがシミュレートされているのだと思えます。そのことを、筆者は”影”と呼ぶのでしょう。

 

そして、律法で言うところの動物の血による赦しは不完全(未来分の罪のことは赦されないということか、謎)で、イエス様によるものは完全であると。

 

ここからの神のメッセージは、非常に重要な教えだと思います。

 

私は自分が罪人であることを強く受け止めてしまうところがあり、その対策として、神に従っていこう、とか、ミニストリーにも参加していこう、とか、そういう心理に陥ることも無くはありません。

しかしこの手紙からすると、それは明らかに間違いです。

罪は赦されているからです。

 

とにかくこのことについて、ヘブル人への手紙は執拗なまでに語りますね。

律法時代の旧契約とは、まさにユダヤ教のことであり、そのユダヤ教社会に生きていながら、イエス様が成された罪の赦しを自分のものとして生きること、つまり、クリスチャンとして生きることが、如何に変化の理解を要したことなのかがわかります。

 

この10章で言うところの神のみこころとは、イエス様が無罪の人として世に来られること、なのですが、ヨハネの福音書の冒頭に記されるように、ことばである神が人となってこの世に来られた方、であり、これはつまり、イエス様ご自身も宣言されたように、罪の赦しの権限を持たれた方=神、が人となられた、ということになります。

 

これ、もう人的な理屈では言い表せない赦しのシステムだと感じますが、言うなれば裁判官が検察官と弁護士を兼ねて刑事裁判を進行するような話で、訴えも擁弁護も証言も、極めつけは判決までもイエス様にやってもらうこと、かも知れません。

いや、それ以上のものです。罪自体が消し去られるということは、無罪の裁判、”しゃんしゃん裁判”にしかなりようがありません。

最初から判決が決まっているのですから。

 

そんなもんがあるはずない。

これがユダヤ教社会の中では当然の判断となっていたわけですが、それは、現代社会においてもそうですよね。

そんな都合の良い話あるか、と。

だから、執拗に語るのだと思うのです。

 

そして、私個人について語られることに戻ると、それは、罪は赦された、もう喜べ、と言われ続けているようです。

罪の赦しのために、これはすなわち、永遠のいのちを頂くために、教会に行くのでも、ミニストリーに参加するのでも、奉仕をするのでもなく、ただ喜んで、感謝して、溢れる良い心で兄弟姉妹たちとこの世を生きて、しっかり辿り着けよ、と言われているのだと思います。

私がイエス様を信じている限り、離れない限り、永遠のいのちはあるということです。

 

ある牧師先生のメッセージを思い出します。

もしイエス様がひょっこり私の前にお姿をあらわしてくださって、「罪赦されて、永遠のいのちがあるという確信の中で、この毎日を楽しんでいるか?」と聞かれたら、何と答えるでしょう、というものです。

 

「ああイエス様、ありがとうございます!恐れなく、焦りもなく、この人生の毎日を楽しんでいますよ!」と元気に答えたら、イエス様はきっと喜んでくださるでしょう。

しかし「赦されたという確信がいまいちないんですよ。私なんかは赦されないのでは、と思って。なんとかそれを確信するために日々努力しています。」と答えたら、その一見謙虚な姿勢をイエス様は喜ばれるでしょうか。

 

十字架で流された血は、イエス様に身体的苦痛以上の犠牲を伴いました。

肉体の死とその恐怖、父なる神から見放されるという究極の辛苦・絶望を通ってくださったことによって、私の罪は赦されました。

だから、それに感謝と喜びで応えることが、愛の応答の底辺なのだと私は思います。

 

その払われた犠牲の大きさに悲しみ続ける必要すら無いと思います。

ご自分の犠牲にして死を遂げられたイエス様のことを、悲しみの目でみつめるのは普通だとは思いますが、イエス様は復活されました。

なんとか生き延びて今も細々と暮らしておられるのではなく、復活されることで神の栄光を体現され、上げられて、今もバリバリに万能の働きをしてくださっているのです。

ド演歌な話は微塵も無い、私はそう思います。これが事実です。

 

その方向性で生きていきたいと思います。

つまり、イエス様を喜ばせる方向性、ということです。

それはもしかすると、「聖なる者」とされながらこの世を生きる者の特徴なのかも知れませんね。