1 以上述べたことの要点はこうです。すなわち、私たちの大祭司は天におられる大能者の御座の右に着座された方であり、
2 人間が設けたのではなくて、主が設けられた真実の幕屋である聖所で仕えておられる方です。

3 すべて、大祭司は、ささげ物といけにえとをささげるために立てられます。したがって、この大祭司も何かささげる物を持っていなければなりません。

4 もしキリストが地上におられるのであったら、決して祭司とはなられないでしょう。律法に従ってささげ物をする人たちがいるからです。

5 その人たちは、天にあるものの写しと影とに仕えているのであって、それらはモーセが幕屋を建てようとしたとき、神から御告げを受けたとおりのものです。神はこう言われたのです。「よく注意しなさい。山であなたに示された型に従って、すべてのものを作りなさい。」

6 しかし今、キリストはさらにすぐれた務めを得られました。それは彼が、さらにすぐれた約束に基づいて制定されました。さらにすぐれた契約の仲介者であるからです。

7 もしあの初めの契約が欠けのないものであったなら、後のものが必要になる余地はなかったでしょう。

8 しかし、神は、それに欠けがあるとして、こう言われたのです。「主が、言われる。見よ、日が来る。わたしが、イスラエルの家やユダの家と新しい契約を結ぶ日が。

9 それは、わたしが彼らの父祖たちの手を引いて、彼らをエジプトの地から導き出した日に彼らと結んだ契約のようなものではない。彼らがわたしの契約を守り通さないので、わたしも、彼らを還りみなかったと、主は言われる。

10 それらの日の後、わたしが、イスラエルの家と結ぶ契約は、これであると、主が言われる。わたしは、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつける。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。

11 また彼らが、おのおのその町の者に、また、おのおのその兄弟に教えて、『主を知れ』と言うことは決してない。小さい者から大きい者に至るまで、彼らはみな、わたしを知るようになるからである。

12 なぜなら、わたしは彼らの不義にあわれみをかけ、もはや、彼らの罪を思い出さないからである。」

13 神が新しい契約と言われたときには、初めのものを古いとされたのです。年を経て古びたものは、すぐに消えていきます。

 

罪について、あれこれ考えてしまいます。

 

私の場合、これは罪なのだろうか、という罪の加減に関することというよりも、普段から罪であるとわかっているのだけれども衝動的に犯してしまう罪を振り返る形で考えていることが多いように思います。

それでも神は赦されるのだろうか、と、悩むわけです。

 

今日のみことばからは、一つの神からの応答があるように思いました。

 

契約の観点から、赦しについて語られているのですが、古い契約の”欠け”とは、律法の不全ではなく、人には守り切れないという人間の不完全性と理解します。

そして新しい契約とは、神が作られた律法は私たち人間の心に書きつけるのだと。

これはアプリをPCやスマホにインストールするに近いと思うのですが、そのような膨大な情報量をいっきにインストールするということは、聖霊によってのものだろうと思います。

 

その結果(いや同時か)「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」と言われています。

ここにイエス様への信仰とは何なのか、が集約されているように思えます。

 

以前聞いたお話ですが、少年犯罪の心理学において、最も犯罪を抑止するものは、親からの愛情とされているようです。

仲間同士で行動している時に、万引きでもしようぜ、というようになった場合、その行動抑止には「こんなことをしたら親が悲しむ」という心理が最も強力に働くのだと。

 

私は神の前での自分の罪を考える時、どうしても自分のダメさ加減に落胆しながら、どうかダメでは無い者に・・・という祈りなどで、自分自身のアップデートを願い求めます。自分に目が行っているということです。

 

しかし、私が注目すべきは神であり、その愛だと思えます。

言い方を替えれば、それはイエス様と私の関係性のことですね。それはパウロが言うように、全地支配し永遠なる神に向かって「アバ父よ」と言えるほどの親しい関係性なわけです。

私はそれを受け取っていると思いながら、”ありがたや”と拝んでいるのかも知れません。

よく「大胆に神に近づく」という言葉が教会で聞かれます。

私は、変な謙遜とか遠慮とかは捨てて今、神に大胆に近づき「アバ父よ→おやじ」と言う時なのかも知れません。

 

そのおやじの愛が、新しい契約ということであり、イエス様が流された血であることは間違いないでしょう。

 

そして天のおやじは、せがれの私の罪を「堪忍する」のではなく「忘れる」と言われます。

やがて人はその肉体の死の後、神の前に立たされて罪の申し開きをしなければならないと聖書は明言しています。

 

その時に神は、「〇〇の罪については?」「〇〇の罪については?」と問われるのかも知れませんね。

しかし、神を「おやじ」と言う者については「何にも罪が無いなあ、はい次・・・」と言われる、ということでしょう。

それが実際にどのように言われるのかはまだわかりませんが、このみことばからすると、そのようであるはずで、これはもう表現の言葉がわからないほどの感激です。

 

私は神をおやじと呼び、父のように愛することが出来る、そのことで今日は胸いっぱいです。

どうして教会が必要なのか、毎日聖書を読むべきなのか、イエス様でさえされたように祈りの時間が必要なのか、それらのこともまたわかります。

愛に触れ続けるべきなのです。