11 さて、もしレビ系の祭司職によって完全に到達できたのだったら、—民はそれを基礎として律法を与えられたのです—それ以上何の必要があって、アロンの位でなく、メルキゼデクの位に等しいと呼ばれる他の祭司が立てられたのでしょうか。

つまり完全に到達出来なかった=人だから、死があるからの理由だろう

12 祭司職が変われば、律法も必ず変わらなければなりませんが、
13 私たちが今まで論じて来たその方は、祭壇に仕える者を出したことのない別の部族に属しておられるのです。

14 私たちの主が、ユダ族から出られたことは明らかですが、モーセは、この部族については、祭司に関することを何も述べていません。

15 もしメルキゼデクに等しい、別の祭司が立てられるのなら、以上のことは、いよいよ明らかになります。

16 その祭司は、肉についての戒めである律法にはよらないで、朽ちることのない、いのちの力によって祭司となったのです。

つまりこれは、律法に照らしてどうかというような罪の犯し加減による”善玉有意の祭司”ではなく、言わば霊能によって召された”善しかない祭司”がメルキゼデクということか。

17 この方については、こうあかしされています。「あなたは、とこしえに、メルキゼデクの位に等しい祭司である。」
とこしえに。今も、だ。

18 一方で、前の戒めは、弱く無益なために、廃止されましたが、

廃止された、というのは表現だと思う。

19 —律法は何事も全うしなかったのです—他方で、さらにすぐれた希望が導き入れられました。私たちはこれによって神に近づくのです。

律法は、言わば神に近づく資格規定として存在したが、それを守るという行動意思は人まかせにされていた、かな。

20 また、そのためには、はっきりと誓いがなされています。

21 —彼らの場合は、誓いなしに祭司となるのですが、主の場合には、主に対して次のように言われた方の誓いがあります。「主は誓ってこう言われ、みこころを変えられることはない。『あなたはとこしえに祭司である。』」—

22 そのようにして、イエスは、さらにすぐれた契約の保証となられたのです。

 

イエス様を証しています。

福音と言えます。

そして、イエス様からの声も感じますね。

 

パウロは、イエス様に召されて罪を憎んでいるのに自分が依然として罪人であることがみじめ、だと主張します。

これはまさに私の中で年がら年中渦巻く葛藤なのですが、これを律法にあてはめれば”地獄行き確定”でしかなく、滅びに至ります。

 

しかし、霊によって召されたメルキゼデクであられる私の主イエス様によれば、”天国行き確定”なのです。

 

あまり良い言葉を使っていないのですが、そういうことです。

 

そして、そのことは主義・思想とか、そういうことにしてどう生きるかという哲学ではなく、イエス様によって保証されている事実なのです。

 

私のような、法上の犯罪の過去があり、人には言えない程の汚いことをやってきた者であり、それはもちろん聖書や律法にあっての罪人であるという悪人でも、イエス様を信じることによって、閻魔様に舌を引っこ抜かれるような事などは一切起きずに、やがて天の住いに与ります。

 

イエス様が今日のみことばから、どのように私に語り掛けているかと言えば、「喜んでいるか?」です。

 

これに対して私が「嬉しいとは思っていますが、私のような者が本当に天に住まう者にしてくださるのかどうか不安です」と言うことは、一見、謙遜な態度であるかのように見えますが、どれほどイエス様に酷でしょう。

 

神としてのご自分をお捨てになり、あの十字架での痛み、父なる神から見捨てられるという最大の心痛、また屈辱によって罪の代価を支払い、罪を私から取り去ってくださっているというのに、「まだ足りないんです」と言っているようなものです。

 

だから私はイエス様に向かって「ありがとうございます、大喜びです」と言おうと思います。

 

実際、この世にいる限りは、罪との戦いが続きますが、喜びの力が最善選択の力となってくれることを信じます。

その力が聖霊様によって与えられることを祈り、満たしをいつも求めていきます。