12 神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。
13 造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。
14 さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。
15 私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。
16 ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。
よくクリスチャン同士の集まりで罪の告白をすると、人は弱いから、という言葉を使って慰めくれる方がいらっしゃいます。
人は弱い、です。
法に定まるところの犯罪は犯さなくても、罪の性質から来る罪は犯してしまいます。
それが弱さなのでしょうか。それが罪人ということなのでしょうか。
そのように慰めてくれるよりも、いっそのこと、だめじゃないか罪なんて犯したら、と叱られた方が、まだ心は楽です。
衝動的に犯してしまう罪があります。
自分がもう止められなかったどころか、そのまま素の自分が溢れ出てきて犯してしまう何か。
「魔が差す」という言葉がありますが、そのような感じもして、言葉通りまさに悪魔が働いたような、そんな感じがすることがあります。
後から振り返って、またやってしまった、と後悔することになります。
もうこうなると、赦されるから、という予測に限りなく近い期待で悔い改めるのではなく、イエス様から離れないために悔い改めてすがりつくような感じになります。
そういう種類の罪を、人は弱い、という普遍性とか摂理性で自分自身を片付けることが出来なくて、自分は悪だ、と認識することで、イエス様にすがりつく動機としているような気さえします。
こんなことでよいのか、という自問自答がいつもあるのですが、それでも「信仰の告白を保て」と言われています。
もしかすると、私は自分が悪であることと、それには対抗出来ない弱さを兼ねていることを自覚すべきなのかなあ、と思いました。
信仰を告白し続けることによって、やがて変えてもらえるように、そういう期待を込めていこうと思います。