1 そういうわけですから、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち。私たちの告白する信仰の使徒であり、大祭司であるイエスのことを考えなさい。
2 モーセが神の家全体のために忠実であったのと同様に、イエスはご自分を立てた方に対して忠実なのです。
3 家よりも、家を建てる者が大きな栄誉を持つのと同様に、イエスはモーセよりも大きな栄光を受けるのにふさわしいとされました。
4 家はそれぞれ、だれかが建てるのですが、すべてのものを造られた方は、神です。
5 モーセは、しもべとして神の家全体のために忠実でした。それは、後に語られる事をあかしするためでした。
6 しかし、キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです。もし私たちが、確信と、希望による誇りとを、終わりまでしっかりと持ち続けるならば、私たちが神の家なのです。
7 ですから、聖霊が言われるとおりです。「きょう、もし御声を聞くならば、
8 荒野での試みの日に御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。
9 あなたがたの父祖たちは、そこでわたしを試みて証拠を求め、四十年の間、わたしのわざを見た。
10 だから、わたしはその時代を憤って言った。彼らは常に心が迷い、わたしの道を悟らなかった。
11 わたしは、怒りをもって誓ったように、決して彼らをわたしの安息に入らせない。」
やはりヘブル人への手紙は難しい書簡と言えます。
なかなか適用にまでこぎつけるのが難儀です。
そのような時は、字義通りに受け取って率直に感じるところを大事にするのですが、最もわかりやすいのは「イエスを考えなさい」というとことです。
クリスチャンなら、イエスのことをずっと考えているよ、となりそうですが、実のところそうでもなく、教会やミニストリーなどでの活動ばかり考えていたり、特に平日では随分イエス様ご自身と遠ざかっているようなこともあります。
そんな特に大事だと思うのは、「この状況イエス様ならどう言われるかなあ」という空想からイエス様を考えることであったり、そこから決断をみちびくことなのかも知れません。
また、今日のみことばの後編においては、出エジプトからモーセ率いるイスラエルの民たちが40年彷徨った話が出てきます。
この理由を、わたしを試みて証拠を求めて・・・、とあります。
彼らは、神を疑っていたのではないと思うんです。
神の存在は疑っていなかったのだけれど、もっと暮らし向きが良くなるように、たくさんものが食べられるように、そんな神が他にいないものか、とか、神は本来そうしてくれるもんだろうとかの不満、そういうもので満たされてしまったのだと思います。
つまり、本当の最高の神なのか、という気持ちによって揺らいでいたとは言えそうです。
このことを、ヤコブ書の著者は「疑い」と呼んでいるのしょう。
盲目的に信じることは、私はあまりおすすめしません。
何故かと言うと、信じる根拠を無視してしまうと、また都合よくタイミングよく入り込んで来た何かを信じることになり、救われない可能性があるからです。
しかし、この聖書の神、イエス様に関して言うと、私は盲目的と言われても、信じているならそれで良いのではないか、とも思うのです。
もちろん、先に申したような危険性については注意が必要ですが、何の疑いも無く信じること、というのは、イエス様を考えてただ信じる事、神は最高だとただ信じることと似ているからです。
私のように、あれこれ考える人間にとっては、むしろこのエッセンスは大事で、「ただ信じよう」基本的にそれでよいのだと思います。
子供のような信仰、ですね。