1 ですから、私たちは聞いたことを、ますますしっかり心に留めて、押し流されないようにしなければなりません。
2 もし、御使いたちを通して語られたみことばでさえ、堅く立てられて動くことがなく、すべての違反と不従順が当然の処罰を受けたとすれば、
3 私たちがこんなにすばらしい救いをないがしろにした場合、どうしてのがれることができましょう。この救いは最初主によって語られ、それを聞いた人たちが、確かなものとしてこれを私たちに示し、
4 そのうえ神も、しるしと不思議とさまざまの力あるわざにより、また、みこころに従って聖霊が分け与えてくださる賜物によってあかしされました。
5 神は、私たちがいま話している後の世を、御使いたちに従わせることはなさらなかったのです。
6 むしろ、ある箇所で、ある人がこうあかししています。「人間が何者だというので、これをみこころに留められるのでしょう。人の子が何者だというので、これを顧みられるでしょう。
7 あなたは、彼を、御使いよりも、しばらくの間、低いものとし、彼に栄光と誉れの冠を与え、
8 万物をその足の下に従わせられました。」万物を彼に従わせたとき、神は、彼に従わないものを何一つ残されなかったのです。それなのに、今でもなお、私たちはすべてのものが人間に従わせられているのを見てはいません。
9 ただ、御使いよりも、しばらくの間、低くされた方であるイエスのことは見ています。イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。
ヘブル人への手紙が難しいと感じるのは、比喩表現が多く、それが何かを確認しながら読み進めるようになるからだと思います。
2章においては、ユダヤ教の中にあってもイエス様を救い主として受け入れた人たちに対して、固く福音に立つようにと言われています。
御使いについての言及が多いのですが、ユダヤ教は今で言う旧約聖書を土台としていますからでしょうか。
御使いは神そのものであられるイエス様よりも低い者たちであると語った上、神の国は救われた者、つまり人に相続されるのだよと言っているように思えてなりません。
このことを固く信じて流されないようにしなければならない、ということです。
これはユダヤ人に対して語られていることですが、日本に生きる私にもあてはまることです。
この世での誉れ高い物、者というのは確かに存在し、とかくそちら側に目を向けてしまいがちです。
最近の私で言うなら、新しい車が欲しいなあ、と思っています。
出来れば、同じマンションの人などからちょっとうらやましがられるようなもの、とかを暗に考えてしまいます。
そのこと自体は、罪なのかどうなのか、偶像礼拝になっているのか、ちょっとはっきりしないのですが、もしこれに、私の言動が支配され出すようなら危険です。
願いとか想定はあるにしても、基本的には神に委ねて、こだわり過ぎずに全てを受け入れていくことが大事なのかと思います。
また、イエス様ならどうお考えになるだろう、どういう判断をされるだろう、ということを思考し、それを実践していくことが最善であるとも思います。WWJDですね。
そのためには、聖霊で満たされ続けることが必要だとは思うのですが、思考の習慣としていくこともまた、聖霊への同調という意味で信仰の一歩である気がしています。
福音に固く立つための鍛錬としても有効かも知れません。