1 こうして救われてから、私たちは、ここがマルタと呼ばれる島であることを知った。

2 島の人々は私たちに非常に親切にしてくれた。おりから雨が降りだして寒かったので、彼らは火をたいて私たちみなをもてなしてくれた。

3 パウロがひとかかえの柴をたばねて火にくべると、熱気のために、一匹のまむしがはい出して来て、彼の手に取りついた。

4 島の人々は、この生き物がパウロの手から下がっているのを見て、「この人はきっと人殺しだ。海からはのがれたが、正義の女神はこの人を生かしてはおかないのだ」と互いに話し合った。

5 しかし、パウロは、その生き物を火の中に振り落として、何の害も受けなかった。

6 島の人々は、彼が今にも、はれ上がって来るか、または、倒れて急死するだろうと待っていた。しかし、いくら待っても、彼に少しも変わった様子が見えないので、彼らは考えを変えて、「この人は神さまだ」と言いだした

7 さて、その場所の近くに、島の首長でポプリオという人の領地があった。彼はそこに私たちを招待して、三日間手厚くもてなしてくれた。

8 たまたまポプリオの父が、熱病と下痢とで床に着いていた。そこでパウロは、その人のもとに行き、祈ってから、彼の上に手を置いて直してやった。

9 このことがあってから、島のほかの病人たちも来て、直してもらった。

10 それで彼らは、私たちを非常に尊敬し、私たちが出帆するときには、私たちに必要な品々を用意してくれた。

 

パウロは漂流して辿り着いたマルタ島で、色々と評価を受けたようです。

 

とても親切にはしてくれましたが、ある時はパウロのことを「人殺し」と言いました。

これは、悪評と言えますが、実は完全な誤解というわけではありません。

また、その後マムシに巻き付かれてから何の症状も出ないことから「神様だ」と言いました。

これは好評と言えますが完全に誤解です。パウロは人間です。

 

人からの評価と言うのは、ほとんどの場合はその場その場で起きている現象からの類推によるもので、好評であれ悪評であれ、時に正確で時に誤解という、きまぐれなものだと思っています。

 

今、マスメディアを賑わす話題というのは、一時の現象から悪人に仕立て上げ、そこに視聴者も参加してサンドバッグのように殴り倒すようなもの、が人気です。

そこには当然誤解も多いわけですが、殴り倒せる対象かどうか、ということだけが重視されています。

 

私は自分に関して残念な習性を持っていると思っています。

それは、人の目に敏感で、どのように見られているかを察知するというものです。

半世紀ほど生きてきましたが、その精度は上がりに上がっている、という状況です。

 

好意的に見られていれば嬉しい気持ちになりますが、もちろんそんな時ばかりではありません。

悪意を持って見られることも頻繁にあります。

 

しかし、それが私の生き方とか信じるものに影響するかと言えば、正直、一時の影響は受けることは結構あるのですが、結局のところは”元のさや”であることがほとんどです。

 

大事なのは”さや”なんだということが、よくわかります。

 

心配事の9割は起こらない、という話が流行しました。

だから、くよくよせずに心配せずに生きた方が良いよ、とか、座禅によって無心になろう、とかが結論の本によるものであったと思いますが、あれは自分に関しては当たっています。

 

人の評価とはまた違うものですが、少なくとも、人からの悪評を恐れて生きることは、時間の無駄だと思います。

 

パウロは、自分に出来る良い事をしてマルタの人たちからの信頼を勝ち取りました。

それが、病を癒すのですからただごとではない良い事ではあるのですが、この方向性は大事にしたいと思います。

 

つまり、人からのアウトプットがどう自分に入って来るのかを気にするより、自分からのアウトプットが良いものになるようにするということです。

 

自分がどんな評価を得ていようと、仮に悪評を述べる人に対してさえも、良い事をしてさしあげる、そういう姿勢です。

 

なかなかそれで、善人になるというのは難しいのですが、イエス様が言われるように「ただで受けたのだから、ただでしてあげなさい」と言うみことばが基本になってくると思います。

受けためぐみの大きさを思うということです。

 

永遠のいのちという、自分の努力では受けることが出来ないめぐみはもちろん、私はクリスチャンになって、毎日、というめぐみを受けているように思えます。

色々と悩むことも多いのですが、とても平安な日々です。

 

だから、人の評価を気にしてではなくて、ただその受けためぐみへの感謝によって、躊躇せずに良い事を行っていきたいと思います。

そのための力を聖霊様より頂けるよう祈ります。