13 彼らはペテロとヨハネとの大胆さを見、またふたりが無学な、普通の人であるのを知って驚いたが、ふたりがイエスとともにいたのだ、ということがわかってきた。

14 そればかりでなく、いやされた人がふたりといっしょに立っているのを見ては、返すことばもなかった。

15 彼らはふたりに議会から退場するように命じ、そして互いに協議した。
16 彼らは言った。「あの人たちをどうしよう。あの人たちによって著しいしるしが行われたことは、エルサレムの住民全部に知れ渡っているから、われわれはそれを否定できない。
17 しかし、これ以上民の間に広がらないために、今後だれにもこの名によって語ってはならないと、彼らをきびしく戒めよう。」

18 そこで彼らを呼んで、いっさいイエスの名によって語ったり教えたりしてはならないと命じた。

19 ペテロとヨハネは彼らに答えて言った。「神に聞き従うより、あなたがたに聞き従うほうが、神の前に正しいかどうか、判断してください。
20 私たちは、自分の見たこと、また聞いたことを、話さないわけにはいけません。」

21 そこで、彼らはふたりをさらにおどしたうえで、釈放した。それはみなの者が、この出来事のゆえに神をあがめていたので、人々の手前、ふたりを罰するすべがなかったからである。

22 この奇蹟によっていやされた男は四十歳余りであった。

 

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このユダヤ教権威層のサドカイ派は、眼前で起こっていることしか信じない、という独自のドグマを持っていたようだ。

眼前で起こっていることなのだから信じるも何も無いとは思うが、それでどうやって見えない神を信じていたのだろうと思うと、頭がおかしくなる。

 

そのようなサドカイ派にとって、イエス様の復活という事実、そして弟子たちがそのイエス様の名によって生まれつきの足萎えを癒した事実。イエス様は既に天に戻られたが、(元)足萎えは目の前で踊って賛美しているのだから、サドカイ派のそのドグマによれば、信じざるをない・認めざるを得ないことであるはずだ。

しかしそれを認めてしまうと、自分たちの権威が危ぶまれるから、事実を隠蔽することにした、というのだが今日のみことばに記されていることだ。

 

今日のみことばから声を大にして言いたいのは、

「聖書に記されていることは全て実際に起きたことであり、歴史的事実である」ということだ。

この事実を捻じ曲げたり、隠蔽することは、サドカイ派が自分たちの地位保全のために神を蔑ろにしたことと同じである。

つまり、神に背くことになる。

そうではなく、聖書に記されることは事実である「Yesその通りです→AMEN」、と認める時、神の祝福がきっとあるだろう。

永遠のいのちを受け取るプロセスを二歩も三歩も進めることになる。

 

そして私もこのことを自分自身に問いかけるのだが、このイエス様の復活を眼前で確認し、奇跡を行う者として用いられたペテロ・ヨハネと私を同期させる魔法のようなみことばが「イエスとともにいた」だ。

 

私は、イエス様の復活を見ていないから、ただひたすらそれが事実であることを信じていく者である。

しかし、そのことを助けるのは、イエス様が共に歩いてくださったという過去の出来事だ。

 

「あんなことは普通起きない」「イエス様がやってくださったのだ」ということが、パッと思いつくだけでも2つある。

私にとっては、「イエスとともにいた」経験であり、このことがどれほど心を強くしてくれるだろう。

 

色々な心配事や悩ましいこともあるけれど、死からよみがえられて生となり天に昇られたイエス様の姿は、やがて私にもおとずれることのモデルである。

これは事実である。これが私にも起きる。夢や精神世界の話ではなく、この現実世界で起きる。この思いから、また力が溢れる。