1 ペテロとヨハネは午後三時の祈りの時間に宮に上って行った。

2 すると、生まれつき足のなえた人が運ばれて来た。この男は、宮に入る人たちから施しを求めるために、毎日「美しの門」という名の宮の門に置いてもらっていた。

3 彼は、ペテロとヨハネが宮に入ろうとするのを見て、施しを求めた。

4 ペテロは、ヨハネとともに、その男を見つめて、「私たちを見なさい」と言った。

5 男は何かもらえると思って、ふたりに目を注いだ。

6 すると、ペテロは、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。

7 彼の右手を取って立たせた。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、

8 おどり上がってまっすぐに立ち、歩きだした。そして歩いたり、はねたりしながら、神を賛美しつつ、ふたりといっしょに宮に入って行った

9 人々はみな、彼が歩きながら、神を賛美しているのを見た。

10 そして、これが、施しを求めるために宮の「美しの門」にすわっていた男だとわかると、この人の身に起こったことに驚き、あきれた。

 

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とても有名な場面だが、この時、ペテロとヨハネはどのような心理状態であったのかな、と読むたびに思う。

 

ペテロは割とお調子者なところが福音書に記されているし、最初にこれを読んだ時は、奇跡を行えるようになったかを試すようにやってみたのではないか、と思っていた。

そういう心理も、実はなくもないのではないかと今でも思うが、しかし、決していちかばちか「やってみた」ではないのは確かで、ペテロにもヨハネにも、結果に対する確信を持っているからこそこの人の”右手を取って”立たせたのだ。

 

そして「ナザレのイエス・キリストの名によって」とその力の出所を示しているのもまた、確信によるだろう。

 

もう一つ、彼ら2人の心理において、重要なところがあるように思える。

それは、施しの心だ。

満たされていたのだろう。そして、イエス様の御名によって施したのだろうなあ、と思う。

 

今日、神が私に求められているのは、この施しの心だ。

私は満たされているかどうかと言えば、やや渇いている気もする。

しかし、私に対する御心が施しであるなら、私は施しを行動に移すべきだ。

そうすれば、満たされるのかも知れない。もちろんそれは、私の浅めの考えによるが、いずれにしても、神はきっと報いてくださるだろう。