どうして、純金は光沢を失ったのでしょうか。
それを埋め込んだ神殿の壁がくずれ落ち、
道ばたに散らばったからです。
2 純金とも言うべき、えりすぐりの若者が、
土の器のように扱われています。
3-4 山犬でさえ、自分の子を育てるというのに、
イスラエルは荒野のだちょうのように、
赤ん坊の泣き声を聞いても知らぬふりをしています。
一滴の水も残っていないので、
子どもたちは渇きのため、
のどがかれています。
幼子はパンが欲しくて泣きますが、
誰ひとり、一かけらも与えることができません。
5 味にうるさい美食家たちも、
口に入る物なら何でも恵んでくれと、
道ばたで物乞いしています。
宮殿育ちの貴族までが、ごみ捨て場をあさります。
6 それというのも、イスラエルの罪は、
またたく間に、人の手によらず滅んだ
ソドムの罪より大きいからです。
7 上流階級の人たちは、ほっそりして日に焼け、
見るからに健康そうで、
最高の人々でした。
8 それが今では、顔はすすけたように真っ黒です。
町の中にいても見分けがつきません。
皮膚はかさかさに乾いてしなび、
骨にへばりついています。
9 剣でひと思いに殺される者は、
飢えのためにじわじわと死に追いつめられる者より
はるかにましです。
10 心の優しい女でさえ、生き延びるために、
自分の腹を痛めた子どもを食べました。
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バビロンによるエルサレム破壊が表現されているが、それが単なる破壊とか壊滅ではなく、エルサレムの民に対する痛みの大きさがどれほどのものかがポイントとなっている。
ソドムの壊滅は、火によるもので短時間に建物や物、人も焼き尽くされたが、エルサレムでは民に、言わば、生き地獄が与えらえているのだ。
貴族はゴミ捨て場を漁っている。
自分の子供を自分が生きるために食べるなど、考えられないことが起きているのだ。
命は大事なものである。
何よりも大事なものである、と言われる。
しかし、ただ生命を維持するということではなく、どう生きるかまでを含めて命であると私は思う。
なぜなら、イエス様が示されたのは、自分ではない誰かの命のために、自分を犠牲にするという能動姿勢であり、これは、究極的などう生きるか視点での死に方と言える。ここから倣うなら、ただなりふりかまわず生命だけを長らえるということにならないように思うのだ。
もちろん、自分がそのような状況になった時、今まさに死ぬという状況になれば、どんな行動をするのか、実際にはわからない。
しかし、私が信じていることは、私にはもう永遠の命が約束されているのであり、もしも自分が死ぬことで誰かが命を長らえることが出来るというなら、喜んでとは言わないまでも、自分を犠牲にすることを選ぶ、ということだ。
※あくまでも、個人とか個人間に関することだ。仮に私が戦地に出向いている兵士だとするなら、つまり、国家のために戦うものであるとするなら、敵の幾分かの兵士が生きるために自分でさっさと死を選ぶということにはなり得ない。
エレミヤが見るエルサレムの民に現れたものは何なのか。
自分が生きるために自分の子を殺害して食べたのだ。
神学的にどうとかはよくわからないが、私はここに問題の本質を見る気がした。
問題の本質とは、神がおられない生き方ということであり、ここには本当の愛などなく、自分のためにどれだけ奪えるか・獲得できるかという生き方ではないかと思う。
つまり神無き生き方やそのような人が集まる世界とかその行先は、神の国である生が満ちた天ではなく、死の行先であるハデス=地獄ということなのではないかなと。
エレミヤが見たのは、それが具現化した姿であり、神が意図的にもたらされた地獄の姿なのだと私は思う。神のいない世界だ。
私は自分が誰かの犠牲になる者であると信じている、としたが、今日の今の時点で私はどうなのかが問われているのだろう。
私は、自分が生きるために子供を食べることはしなくても、ただ自分の利益とか快楽とか楽しみのために、誰かを犠牲にしてしまってはいないだろうか。
ただそれだけのために、見捨ててきた何かがあるのではないか。
これを悔い改めて、行動も改める力を頂き、神ある世界に生きる者として成長していきたい。