神に立てられた指導者の権威に服従し、いつも従順で、良いことは何でも進んで行うよう、教会の人たちに教えなさい。
2 また、人の悪口を言ったり、けんかをしたりせず、やさしい態度で、すべての人に礼儀正しく接するように教えなさい。
3 以前の私たちも、分別の足りない不従順な者であり、人に迷わされ、さまざまな快楽や欲望のとりこになっていました。心は悪意とねたみの固まりで、憎んだり憎まれたりしながら生活していました。 4 しかし、救い主である神が、恵みと愛を示してくださる時がついに来たのです。 5 神は、私たちの罪のよごれを洗い落とし、心に聖霊を遣わして、新しい喜びで満たし、以前の悲惨な生活から救い出してくださいました。それは、私たちに救われる資格があったからではなく、ただ、神のあわれみによるのです。 6 神は、私たちの心にこの聖霊を豊かに注いでくださいました。これは、救い主イエス・キリストが成し遂げてくださった救いがあるからこそ実現したのです。 7 こうして神は、私たちを、ご自分の目にかなった正しい者と宣言してくださったのです。これは、神の恵み以外の何ものでもありません。私たちは今、永遠のいのちを受け継ぐことを認められ、実際にそれをいただく日を、心から待ち望んでいるのです。
8 これまで話してきたことは、すべて真実です。ですから、確信をもって、クリスチャンはいつも良い行いに励むべきだ、と教えなさい。そういう生き方は正しいだけでなく、すばらしい結果を生むことにもなるからです。
9 しかし、堂々巡りの議論にふけったり、あやしげな神学論争に巻き込まれたりしてはいけません。律法を守ることについての議論や論争も避けなさい。そんなものは何の益にもならず、むしろ害をまき散らします。 10 教会を分裂させる人がいたら、一度か二度きびしく警告し、それでも聞き入れなければ、かかわりを断ちなさい。 11 そのような人は心が曲がっていて、悪いとわかっていながら、罪を犯しているのです。
12 ところで、アルテマスかテキコを、そちらへ派遣しようと思っています。二人のどちらかが着きしだい、あなたは、ニコポリにいる私のもとに来てください。私は、そこで冬を過ごすことにしましたから。 13 アポロと律法学者ゼナスとが旅立てるように、あなたもできるだけ骨折って、必要な物が全部そろうよう、気を配ってやってください。 14 私たちはみな、助けが必要な人々を進んで援助する習慣をもっと身につけなければなりません。そうすれば、実を結ぶ生活を送れるでしょう。
15 こちらの人がみな、あなたによろしくと言っています。そちらのクリスチャンの友人たちに、よろしく伝えてください。神の祝福が、あなたがたと共にありますように。
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短いパウロからのテトスに宛てた手紙はこれで終わるが、なんと素晴らしいものだろうと、今日も感心しながら読んだ。
私は自分のことがあまり好きではない。
いわゆるネガティブ思考なところがあって、自分がやっていることに自信が持てない。
そういう渇きが力を生む時もあるが、何か難しいことをがんばってやっていこうとする時、少なからず足踏みしてしまう原因になることが多い。
元々とある運動の競技者でそれを生業としたものの、能力的な限界の他にも色々な理由があって選手をあきらめた。
選手時代にお世話になった大企業から出た後、それから歩いた道は、一か八かの綱渡りのような道であったけれど、何かを成した感覚はなく、むしろ、大きな失敗を繰り返していたのだなあと振り返って思う。
選手としてダメ、家庭人としてダメ、仕事人としてダメ、ダメ、私は私自身の能において全くダメなのだ。
それに気がつきだした頃、つまり、もう人生そのものがダメだと思い詰めたとき、イエス様に出会ったのだから、そういう自分や自分の道が、間違いであったとは言えないのだが。
今日のみことばから伝えられることは、まず、神のあわれみの力だ。
主よあわれんでください、という言葉は、神を求める者の言葉として聖書に何度か登場する。
主のあわれみの根拠は、それは愛なる神であるからとしか言いようがないのだが、もし私に何かその根拠に結び付くポイントがあるとするなら、まさに「主よあわれんでください」という嘆願とか、すがりつきでしかないと思う。
しかし、そういうすがりつく者に対して、全能者であり絶対正義者である神は、なんとあわれみをくださるのだ。
そして、そのあわれみは、最低でも永遠のいのちという、人としてこれ以上無いものをくださると言われるのだ。
そしてもう一つのメッセージは、永遠のいのちだけではない、ということだ。
すがりつく者に対して神は、永遠のいのちを約束してくださると同時に、主の目に叶う正しい者と宣言してくださるということだ。
「以前の悲惨な生活から救い出し、、、」とある。
つまり、私の努力によって、正しい者に変身するのではなく、聖霊を私に住まわしてくださり、それによって新しい喜びを与え、そのことは、悲惨な生活から遠ざかる、ということだろう。
永遠のいのちは、この世を去ってみないと獲得した実感は湧かないだろうが、今この世界で生きている者に対しても、その生活を喜びへと変えてくださるということだ。
私はこれを実際に体験してきたから、余計にその感動がある。
さて、今日の最も注点を置くところは・・・・
パウロは、上の指示に従順で、まじめ、柔和、善行の率先を実行することの能力は、既に永遠のいのちと共に備えられていると言う。
ということは、それに私が同意すること、とりあえずやりはじめること、自分のスイッチをONにすること、それらだけで実践出来るということだ。
そしてそれは、素晴らしい結果を生むことになる、と言われる。
つまり、報いがあるということだ。
私は神から報いを期待する。
自分の能にあっては、相変わらずだめだけれども、神の能にあって、従順・まじめ・柔和・善行の率先者でいようと思う。