17 主は、いと高き所から御手を伸べて私を捕らえ、私を大水から引き上げられた。

18 主は、私の強い敵と、私を憎む者とから私を救いだされた。彼らは私より強かったから。

19 彼らは私のわざわいの日に私に立ち向かった。だが、主は私のささえであった。

20 主は、私を広い所に連れ出し、私を助け出された。主が私を喜びとされたから。

21 主は、私の義にしたがって私に報い、私の手のきよさに従って私に償いをされた。

22 私は主の道を守り、私の神に対して悪を行わなかった。

23 主のすべてのさばきは私の前にあり、そのおきてから私は遠ざからなかった。


24 私は主の前に全く、私の罪から身を守る。

25 主は、私の義にしたがって、また、御目の前の私のきよさにしたがって私に償いをされた。

26 あなたは、恵み深い者には、恵み深く、全き者には、全くあられ、

27 きよい者には、きよく、曲がった者には、ねじ曲げる方。

28 あなたは、悩む民を救われますが、高ぶる者に目を向けて、これを低くされます。

 

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今回のサムエル記QTから学ぶことはとても多いなと感じている。

 

ダビデはサウルに追われた時にはより神に頼り、サウルから逃れて王に就いてから、大きな罪を犯した。

その罪は、子らが死んでいくということと、その子の一人であるアブシャロムの謀反などで刈り取ることになった。

 

そして、そのことによってまたダビデは霊性を取り戻す。

追われてこそ、のダビデと言えるかも知れない。

 

この歌から少し目線を上げて、ダビデをその人生という尺で見つめると、罪を犯すかどうかという点から見えてくる霊性の浮き沈みはありながらも、神から離れない・神にしがみつく、ということでは一貫していたことがわかる。

そのことを彼はこの歌で、「私は」という主語で表すのではなく「主は」とひたすら繰り返すのだ。

 

ここからは重要な学びがあると思う。

神と私の関係は、正面同志で向き合うようなものではなく、神は私を全方向から取り囲むように存在されていて、本来は逃げも隠れも出来ないということだ。

ダビデは確かに、安穏とした時に罪を犯した。

しかし、その罪人の姿を神の前から隠そうとはしなかった。

それは、隠れることが出来ないからだろう。

 

私は今日のQTからは、大きな安心を得ることが出来た。

以前、朝ドラで流行った時に、広岡朝子さんの本を読んだことがあるが、彼女がクリスチャンになったのは、がんの手術をするために麻酔を受けている時、自分を受けとめるような神の大きな存在を感じたから、というものであったと思う。

自分が資本で一生懸命生きてきた彼女だから、何かを誰かに任せることが出来ないようなところがあったに違いない。

それでも、病気という状況においては、治療は医者に、命は神に委ねざるを得ない。

逃亡中のダビデと似た状況にあってこそ、神を感じることが出来たということだ。

私は今、少し追われるような気持ちがある。

しかし、だからこそ神はその存在を表してくださるのだと思うと、今日に期待が持ててくる。