17 ダビデは、サウルのため、その子ヨナタンのために、この哀歌を作り、
18 この弓の歌をユダの子らに教えるように命じた。これはヤシャルの書にしるされている。

19 「イスラエルの誉れは、おまえの高き所で殺された。ああ、勇士たちは倒れた。
20 これをガテに告げるな。アシュケロンのちまたに告げ知らせるな。ペリシテ人の娘らを喜ばせないために。割礼のない者の娘らを勝ち誇らせないために
21 ギルボアの山々よ。お前たちの上に、露は降りるな。雨も降るな。いけにえがささげられた野の上にも。そこでは勇士たちの盾は汚され、サウルの盾に油も塗られなかった。
22 ただ、殺された者の血、勇士たちのあぶらのほかは。ヨナタンの弓は、退いたことがなく、サウルの剣は、むなしく帰ったことがなかった
23 サウルもヨナタンも、愛される、りっぱな人だった生きているときにも、死ぬときにも離れることなく、鷲よりも早く、雄獅子よりも強かった
24 イスラエルの娘らよ。サウルのために泣け。サウルは紅の薄絹をおまえたちにまとわせ、おまえたちの装いに金の飾りをつけてくれた。
25 ああ、勇士たちは戦いのさなかに倒れた。ヨナタンはおまえの高き所で殺された。
26 あなたのために私は悲しむ。私の兄弟ヨナタンよ。あなたは私を大いに喜ばせ、あなたの私への愛は、女の愛にもまさって、すばらしかった。
27 ああ、勇士たちは倒れた。戦いの器はうせた。」

 

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一般的な感覚としてだが、自分を執拗につけ狙い、殺害を意図した者に対して、たとえそれが故人であったとしても、ここまで褒め称えることが出来るだろうか。

 

私の中で、勘違いがあったかなと感じている。

それは、ダビデのサウルに対する感情だ。

ダビデは自分を殺そうとするサウルを、2度殺害することが出来る機会があった。

しかし彼は、サウルが神から王として選ばれて、一度は油注がれた者であるからという理由でそれをしなかった。

 

私はこのことを、神に対する信仰が故に、忍耐を持ってこらえたのだろうと思っていた。そういう気がしていたのだ。

つまり、本当はダビデにはサウルを殺してしまいたいという衝動があったのに、それを信仰的理性でもって、抑えつけていたのだろうと。

 

しかし、今日のこのダビデが歌った詩からは、そうではないとわかる。

「信仰による・・・」というものは、衝動などを抑え込む力ではなく、その人の思考回路ごと神の価値観に置き換えてしまうことであり、ダビデがいつからそのようであったのかはわからないのだが、サウルに関して言えば、彼を殺そうという発想がそもそも無かったのだ。あの二度の機会に、殺そうと思ってためらったのではないということだ。

 

私にとってこのダビデの詩は、彼の親友であるサウルの子、ヨナタンの死をただ悲しんでのものではない。

むしろそれは側面であり、本質は彼の信仰を現わしているものに映る。

 

実は、明日は私が10年以上も親しくした友人が死んだ日だ。

共に仕事をした友人だが、私的関係も深く、共に生きた年月であったと言える。

しかし、莫大な借金を含めた”負の遺産”を高く積み上げて自死してしまった彼の事を、私は、時間が経つほどにゆるせなくなっている。

友人を失くした悲しみが激しかった頃は、冷静に打算できなかったのだが、時間と共に悲しみが薄らいでいくと、それが出来るようになるのだ。

だから、「よくも騙してくれたな」とか「無責任に死にやがって」というような感情が、10年経ってから湧き出ててきているのだ。

 

しかし、このダビデの詩から黙想し、彼が私にもたらしてくれたことや彼と私が歩いてきた道を、現在に至る通過点とか経緯として見つめてみると、欠かせなかったことがわかる。そこには、彼の自死も含まれているのだ。

その道とは即ち、私が神に出会うための道であり、はっきりとはわからないが、彼の存在すら神がもたらしたものなのかも知れないと思えるのだ。

私が福音を受け入れてからまもなく彼は死んだ。少なくとも、神がご介入されたと考えるのが、むしろ自然だ。

 

ダビデは信仰で、自分を苦しめたサウルの栄光を歌った。

私は、亡き友への誤解を認めて、むしろ新たに感謝したい。

聖霊の傾注を待ち望む。