6 さて、イエスがベタニヤで、ツァラアトに冒された人シモンの家におられると、
7 ひとりの女がたいへん高価な香油の入った石膏のつぼを持ってみもとに来て、食卓に着いておられたイエスの頭に香油を注いだ。
8 弟子たちはこれを見て、憤慨して言った。「何のために、こんなむだなことをするのか。
9 この香油なら、高く売れて、貧しい人たちに施しができたのに。」
10 するとイエスはこれを知って、彼らに言われた。「なぜ、この女を困らせるのです。わたしに対してりっぱなことをしてくれたのです。
11 貧しい人たちは、いつもあなたがたといっしょにいます。しかし、わたしは、いつもあなたがたといっしょにいるわけではありません。
12 この女が、この香油をわたしのからだに注いだのは、わたしの埋葬の用意をしてくれたのです。
13 まことに、あなたがたに告げます。世界中のどこででも、この福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。」
14 そのとき、十二弟子のひとりで、イスカリオテ・ユダという者が、祭司長たちのところへ行って、
15 こう言った。「彼をあなたがたに売るとしたら、いったいいくらくれますか。」すると、彼らは銀貨三十枚を彼に支払った。
16 そのときから、彼はイエスを引き渡す機会をねらっていた。
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復活祭の週に入り、今日からはイエス様の復活に関するみことばとなった。
その中でも今日のみことばは、イエス様のみこころが反映されることになるものだろう。
ナルド油という高価な香油をイエス様に注いだ女性のことを「福音がのべ伝えられる所ならこの人のした事も語られてこの人の記念となる」と言われているからだ。
これは、イエス様にとっては喜びの表現であったのではないだろうか。
イエス様が十字架で背負ってくださったものは、全人類の罪であり、それは、全人類の罪を神の前で無かったことにさせるほどのものであった。
だからこそ、イエス様は無罪である必要があり、その苦しみは人が受ける最も厳しく過酷なものでなければならなかったとは言えないか。
命を失うだけではなく、どん底の絶望、究極的な身体的・知覚的な苦しみ、それらが必要であったのだろう。
そこに向かう過程が、まさに今日のみことばであるわけだが、そういう完全な苦しみの中で、わずかに見出されたイエス様の喜びがこのナルド油の女性の行為であると思う。
女性は、イエス様が苦しみに向かうこと、死に向かうことを理解し、財産をはたいてナルド油を購入し、惜しげもなくイエス様に注いだ。
惜しげもなく、だ。
弟子たちにはそれが、無駄な行為に見えたとある。
そんなことをするくらいなら、もっと施しが出来るのに、と言うのである。
ここには、弟子たちがまだイエス様を霊的に理解していない姿がある。
これもまた、後の宣教に出て行く彼らにとって必要な過程であったのかなとも思うが、この時点では、イエス様にとってそこに喜びはなかっただろう。
イエス様の喜び。
私が今日求められるのはそれかなと思う。
私がどのようであればイエス様は喜ばれるだろう。
イエス様がしてくださったことに対して、見合った”お返し”をすることなどは出来ない。
そうすると、つまりペイフォワードとなるわけだが、救われたものとして、自分の何かにこだわることなく、他人に対して利益があったり、やすらぎがあったり、そのような行動や発言を。
今日の指針だ。