ダビデはノブの祭司アヒメレクのところに行った。アヒメレクはダビデを迎え、恐る恐る彼に言った。「なぜ、おひとりで、だれもお供がいないのですか。」

2 ダビデは祭司アヒメレクに言った。「王は、ある事を命じて、『おまえを遣わし、おまえに命じた事については、何事も人に知らせてはならない』と私に言われました。若い者たちとは、しかじかの場所で落ち合うことにしています。

3 ところで、今、お手もとに何かあったら、五つのパンでも、何か、ある物を私に下さい。」

4 祭司はダビデに答えて言った。「普通のパンは手もとにありません。ですが、もし若い者たちが女から遠ざかっているなら、聖別されたパンがあります。」

5 ダビデは祭司に答えて言った。「確かにこれまでのように、私が出かけて以来、私たちは女を遠ざけています。それで若い者たちは汚れていません。普通の旅でもそうですから、ましてきょうは確かに汚れていません。」

6 そこで祭司は彼に聖別されたパンを与えた。そこには、その日、あたたかいパンと置きかえられて、主の前から取り下げられた供えのパンしかなかったからである。

7 —その日、そこにはサウルのしもべのひとりが主の前に引き止められていた。その名はドエグといって、エドム人であり、サウルの牧者たちの中のつわものであった—

8 ダビデはアヒメレクに言った。「ここに、あなたの手もとに、槍か、剣はありませんか。私は自分の剣も武器も持って来なかったのです。王の命令があまり急だったので。」

9 祭司は言った。「あなたのエラの谷で打ち殺したペリシテ人ゴリヤテの剣が、ご覧なさい、エポデのうしろに布に包んであります。よろしければ、持って行ってください。ここには、それしかありませんから。」ダビデは言った。「それは何よりです。私に下さい。」

 

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今日のみことばから、まず最初に受けたものは、めぐみによって生きる、だ。

 

特に日本ではそうなのかも知れないが、誰かに迷惑や負担をかけたりすることがないように・・・というのが、一つの美徳に近いマナーのようなものになっているように思う。

 

しかし、天の事を思うと考えは少し変わってくる。

いのちは神から受け、いずれ神のところへと帰ることができるわけだが、いのちというものは「もらうばかりのめぐみ」によってでしか成し得ないものということだ。

 

だからと言って、人にお願い事ばかりしていいということにはならないが、そもそも、お願いごとをしなければ、または、依存しなければいのちは無いのだということを理解しておくべきなのだろう。

 

その理解は、自分の無力さとか完全さを認めることであり、謙遜な態度につながり、表情や言葉遣いとなってあらわれてくる。

 

自分を愛す、自分に自信を持つ、自分の可能性を信じる、などなど”自分”に対する肯定感を促すような言葉がここ20年くらいはよく聞かれるようになった。

自己肯定感は大事なことだとは思っているが、自分にあまりにフォーカスし過ぎる状況が常態化すると、どうしたって避けられない他人との関係や相対的評価に向き合った時、むしろ自分自身に対して否定的で場合によっては攻撃的なリアクションを引き起こしてしまうのではないかと思っている。

つまり、内向性が強くなり過ぎるということだ。10代の自殺率が高いのは、この影響があるかも知れない。

 

私はそうのような意味でも、めぐみによって生きる姿勢(めぐみが無ければ生きられないことをわかること、の方が正確化)は、内向性と外向性のバランスを取る一つの知恵であると思う。

 

まあそういう屁理屈は置いといて、神が言われる私がなすべき言動、として捉えると、やはり謙遜である。もう一つは大胆に、ということも。

謙遜に大胆に、なんて二律背反のような感じもするが、ダビデのこの姿勢はそれそのままであるように思う。

「今もしお持ちでしたら何か食べるものをくださいませんか、武器も使わせてもらえませんか。」

 

イエス様も言われた。

「求めなさい与えられるだろう、探しなさい見つかるだろう、たたきなさい開かれるだろう」

ここにはまさに”大胆に”という言葉が隠れているようにも思う。

神は共におられる。