18:10 その翌日、わざわいをもたらす、神の霊がサウルに激しく下り、彼は家の中で狂いわめいた。ダビデはいつものように竪琴を手にして弾いたが、サウルの手には槍があった。

18:11 サウルは槍を投げつけた。ダビデを壁に突き刺してやろうと思ったのである。ダビデはサウルの攻撃から二度も身をかわした。

18:12 サウルはダビデを恐れた。それは、主がダビデとともにおられ、サウルを離れ去られたからである。

18:13 サウルはダビデを自分のもとから離し、彼を千人隊の長にした。ダビデは兵の先に立って行動した。

18:14 主が彼とともにおられたので、ダビデは、行くところどこででも勝利を収めた。

18:15 彼が大勝利を収めるのを見て、サウルは彼を恐れた。

18:16 イスラエルもユダも、皆がダビデを愛した。彼が彼らの先に立って行動したからである。

 

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ヨブは、神の目にかなった義人であったが、試練の日々を送ることになった。

それは、悪魔がヨブに入ることを許可されたことによった。

サウルに下った神の霊というのは、もしかするとそれと同じ状態であったか。

だとすると、それは試練なのであり、この時点で、まだ神に立ち返る余地があったのかも知れないのに・・・という気がした。

 

ここでサウルのif”たられば”を想像してみる。

彼がもし、神に立ち返っていたならどうであったか。

まず、神に対する悔い改めの言動があっただろう。

以前、サムエルに対して自分が罪をおかしてしまった旨を述べたサウルだが、自分の地位にはすがりつき、民衆の面前でメンツが保たれることを乞うた。

そのサムエルを通じて、神がサウルを王位から取り去ったこと、つまり、神の御心は理解していたはずだ。

だから、サウルの悔い改めには、自ら王位を降りることが一つのしるしになるべきであった。

そうすれば、神は愛であられる方なのだから、あわれみをサウルにかけてくださったのに。

サウルのifは、王という地位を手放していたら、ということかと思う。

しかし現実は、サウルはその地位にすがり続けたのだ。

 

サウルが、嫉妬心をむき出しにしながら憎きダビデを軍事的に重用した、ということから、サウルの中で起こっている自己葛藤と、どこを見て生きているのかという彼の価値観の本質を見ることが出来る。

憎らしいやつであっても、自分の手柄、自分の地位保全のためには使わざるをえない、という感じだろう。

ビジネスの世界では時々起こる現象だ。金のためには、ぐっとこらえて頭を下げる、というような。

 

そういう意味では、私自身がやはり自分にある”サウル性”を大いに理解し、時に実践してしまっていることを認めなければならないわけで、これは、悪い霊性にある、或いは試練の渦中と言えるのかも知れない。

サウルと私が決定的に違うことは、人という形をとって来られた神であるイエス様が、既にその愛を見せてくださっていることと、私はそのめぐみを受け取って生きていることだ。

ここにすがり、思い出し、安心し、ビジネスであっても人間関係であっても、「イエス様ならどうされるのか_What Would Jesus Do」を祈って実践していくこと。

それがサウルのifに相当してくるかと思う。

 

サウルの葛藤を通して、私が本来とるべき行動が示されていると思う。

私はサウル性を持ちながら、実はダビデの道を歩いている者であることがわかった。

これは、神が共に歩いてくださっているという力強いメッセージだ。