6:13 ベテ・シェメシュの人たちは、谷間で小麦の刈り入れをしていたが、目を上げると、神の箱が見えた。彼らはそれを見て喜んだ。

6:14 車はベテ・シェメシュ人ヨシュアの畑に来て、そこにとどまった。そこには大きな石があった。人々は、車の木を割り、雌牛を全焼のささげ物として主に献げた

6:15 レビ人たちは、主の箱と、そばにあった金の品物の入っている鞍袋を降ろし、その大きな石の上に置いた。その日、ベテ・シェメシュの人たちは全焼のささげ物を献げ、いけにえを主に献げた。

6:16 ペリシテ人の五人の領主は、これを見て、その日エクロンに帰った。

6:17 ペリシテ人が償いとして主に返した金の腫物は、アシュドデのために一つ、ガザのために一つ、アシュケロンのために一つ、ガテのために一つ、エクロンのために一つであった。

6:18 すなわち、金のねずみは、五人の領主に属するペリシテ人の町の総数によっていた。それは、砦の町と城壁のない村の両方を含んでいる。彼らが主の箱を置いたアベルの大きな台は、今日までベテ・シェメシュ人ヨシュアの畑にある。

6:19 主はベテ・シェメシュの人たちを打たれた。主の箱の中を見たからである。主は、民のうち七十人を、すなわち、千人に五人を打たれた。主が民を激しく打たれたので、民は喪に服した。

6:20 ベテ・シェメシュの人たちは言った。「だれが、この聖なる神、主の前に立つことができるだろう。私たちのところから、だれのところに上って行くのだろうか。」

6:21 彼らはキルヤテ・エアリムの住民に使者を遣わして言った。「ペリシテ人が主の箱を返してよこしました。下って来て、あなたがたのところに運び上げてください。」

 

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不思議な話だといつも思うが、ペリシテ人たちはこの聖書の神、イスラエルの神について、詳しく知っており、まさにペリシテ人が考えた通りのことになっていった。

偶像礼拝数多くあれど、本当の神はただお一人であることと、そこには圧倒的権威があることを思い知らされる出来事だ。

 

さて、そのペリシテ人が送り返してきた神の箱だが、取扱に詳しいレビ人に取り扱わせているところは良かったものの、神の箱を見たという理由でベテ・シェメシュの数多くの人民が死んでしまっている。衝撃だ。

 

これをもって、神様というのはどういうお方であるのかを知るべきなのだが、なかなか辛辣というか、いよいよ世間の神イメージとはかけ離れることになるように思う。

 

あくまでも私が”思える”ことであるが、宗教と実在の神との混同がベテ・シェメシュの人らにあったのではないだろうか。

ベテ・シェメシュの人らには信仰の心、神を信じる心は確かにあったからこそ神の箱が返ってきたことを喜んだのに違いないのだから、とても難しいことではある。

神の圧倒的な聖、聖性ではなく聖そのもののことについて、彼らは理解もなければ実感も無い、わかっていなかったのだと思う。

 

で、私はどうなのか、ということを神様は問うておられる気がしてならい。

ベテ・シェメシュの人たちが犯してしまった重大な罪は、私にもあてはまってくるところがあるのではないか。

神様の存在を、生活の中の一部程度とか、私のライフスタイル程度とか、何か自分の所属するサークルのような形とか、そういう神様の聖とはかけ離れたものとして扱っていないだろうか。

ペテロがイエス様のみわざを目の当たりにして湖に飛び込んだ時の心、つまり、自分の”低さ”を思い知らされ一種の恐怖も混じった心境。ベテ・シェメシュの人たちは、神の箱をみだりに開けてしまったのとは正反対だ。

私はこのペテロの心境から神様に向かい、今や自分がこの聖に属すことを約束してくださっていることを今一度厳粛に受け止めなければならないと思う。

そこには、この世を生きていく中での罪との戦いがあり、それでも罪を犯す低さと悔い改めが都度あるはずだと思う。

 

実は先日から、とあることで神への従いを続けている。

ハンナがサムエルを神様に捧げた信仰を思ってのことだ。

今日のみことばは、その激励のようにも聞こえる。

Praise God

 

そして、今日はこのみことばから、安易に行動してはならないことを示されていると思う。

行動の前に、一度立ち止まって、考えて、を実践していこうと思う。