3:10 私は、キリストとその復活の力を知り、キリストの苦難にもあずかって、キリストの死と同じ状態になり、
3:11 何とかして死者の中からの復活に達したいのです。
3:12 私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして追求しているのです。そして、それを得るようにと、キリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。
3:13 兄弟たち。私は、自分がすでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ一つのこと、すなわち、うしろのものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばし、
3:14 キリスト・イエスにあって神が上に召してくださるという、その賞をいただくために、目標を目指して走っているのです。
3:15 ですから、大人である人はみな、このように考えましょう。もしも、あなたがたが何か違う考え方をしているなら、そのことも神があなたがたに明らかにしてくださいます。
3:16 ただし、私たちは到達したところを基準にして進むべきです。
3:17 兄弟たち。私に倣う者となってください。また、あなたがたと同じように私たちを手本として歩んでいる人たちに、目を留めてください。
3:18 というのは、私はたびたびあなたがたに言ってきたし、今も涙ながらに言うのですが、多くの人がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。
3:19 その人たちの最後は滅びです。彼らは欲望を神とし、恥ずべきものを栄光として、地上のことだけを考える者たちです。
3:20 しかし、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待ち望んでいます。
3:21 キリストは、万物をご自分に従わせることさえできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自分の栄光に輝くからだと同じ姿に変えてくださいます。
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いわれのない苦難、どうして自分がこんな目にあわなければならないのか、という思いと損害は、人生の中でそれなりにあったりする。
今でも思い出せば落ち込むような、そんな出来事もある。
先日読んだ「コリント人への手紙」でのみことばで私に刺さっていることがある。
自分が損をしても(理不尽を)甘んじて受けよ、というもの。
文脈をたどれば、教会内での分派が分裂に至ってしまっているコリント教会での教会員同士の争いについて、パウロが指図している内容の一つであるから、私にあった”理不尽”とは少し違うものではある。
しかし、今日のみことばによって、それは同じであることが示されている。
パウロが言うように、私もまだ到達はしていないが、到達するところを知っている。
それは、罪が赦されて行かせていただくところ、頂く体のことだ。
このことは、どれほど大きなことだろうか。
イエスの苦難によって(ただの苦難ではなく、人が受ける身体的・精神的最強の苦難と言える)、私の罪は洗い流されている。
私は神の前でいずれ言うかも知れない。
「神様私は〇〇という罪を犯してしまいました」
しかしこれに対して神は言われる。
「あ、そう。それは知らんよ。」
罪はあるけど特別に罰は与えないようにしてくれたとかの次元ではなく、罪など初めから無かった状態にしていただいたのだ。前科1000犯あるがゆるされたのではなく、罪人なのに前科などついていないということだ。
そして私は前科無しが故に、一点のシミもない健康な体を頂いて、きれいな家も頂いて、神のおられるところで何の心配も悲しみも永遠に過ごすのだ。
そのことを復活したイエスが証明までしてくれている。
なんでもかんでも理不尽を飲み込むことは出来ないとは思う。
しかし、少なくとも自分のプライドが損なわれたり、納得いかないと腹を立てる程度の理不尽、贅沢が出来なくなる程度の金銭的損害を被るような理不尽、パウロが言う「滅びに至る欲望」を満たされないという理不尽、そんなものは、今すぐにでも飲み込んでしまおう。
そんなものに捕らわれるなとも主は言われていると思う。
今日のみことばは、黄色マーカーだらけだ。