1:22 しかし、肉体において生きることが続くなら、私の働きが実を結ぶことになるので、どちらを選んだらよいか、私には分かりません。
1:23 私は、その二つのことの間で板ばさみとなっています。私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。そのほうが、はるかに望ましいのです。
1:24 しかし、この肉体にとどまることが、あなたがたのためにはもっと必要です。
1:25 このことを確信しているので、あなたがたの信仰の前進と喜びのために、私が生きながらえて、あなたがたすべてとともにいるようになることを知っています。
1:26 そうなれば、私は再びあなたがたのもとに行けるので、私に関するあなたがたの誇りは、キリスト・イエスにあって増し加わるでしょう。
1:27 ただキリストの福音にふさわしく生活しなさい。そうすれば、私が行ってあなたがたに会うにしても、離れているにしても、あなたがたについて、こう聞くことができるでしょう。あなたがたは霊を一つにして堅く立ち、福音の信仰のために心を一つにしてともに戦っていて、
1:28 どんなことがあっても、反対者たちに脅かされることはない、と。そのことは、彼らにとっては滅びのしるし、あなたがたにとっては救いのしるしです。それは神によることです。
1:29 あなたがたがキリストのために受けた恵みは、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことでもあるのです。
1:30 かつて私について見て、今また私について聞いているのと同じ苦闘を、あなたがたは経験しているのです。
- - - - - - - - - -
福音を聞き、イエス様を信じるようになって間もない頃、高校の同級生で、今では立派な企業の社長さんになっている人物に会って伝道した。
同級生の間での信望も厚く、同窓会などをとりまとめてくれたりして、本当に良い人間だ。
私は彼に「クリスチャンになったから是非そのことを伝えたい」と言って会うことになり、そして私は彼に福音をそのままに伝えた。
結果、彼は怒りだしてしまった。人は全てが罪を犯している、というところあたりから「ちょっと待て」となりながらも強引に話を進めてしまった私のやり方に問題があったのだと思っているが、それでも、これまで伝道してきた中で、あれほど怒りをあらわにされたことはない。
彼との友人関係は幸いにも続いているが、どことなくぎこちなくなってしまった感はある。
パウロが今日のみことばで言っていることと、この伝道で出来事は関係があるように思う。
おそらく、友人に伝道したら怒られたとか、友人との関係がぎこちなくなったクリスチャンの兄弟姉妹たちは他にもいてるように思う。
パウロが言う、福音を受け入れた者としての生き方は、霊を一つにして固く立ち、心を一つにすること。
正直、その友人にキレられたことは当時もそうだし、今でもショックを覚える。
よく宗教に見られる独善的で漠然とした正義感とか幸福感と福音は違う。福音は、あらゆるファクト(要はそれを信じるかどうかなのだが)によって立証されている論理の一種とも言えるものだからだ。
だから、反社会的でもなく、宗教的妄言でもなく、コンディショナルな洗脳手法のようなものでもない。
そう今でも思い、当時も思っていたのに、それでも社会で一定認められる彼にキレられたことが、何か私自身のそういう信仰でもない人なりの理性部分まで否定されてしまったようでショックだった。
しかし、今日のみことばであらわされるように、それは一つの印なのだとわかる。
だから今は、信じて間もないクリスチャンがこの世とのフリクションに遭遇する場合に、私は何かが出来ると思う。それが、次の私の役目なのかも知れない。
伝道のことだけではない。
ゴルフよりも日曜日の礼拝を優先することも、忘年会で酒を飲むことをことわることも、いかがわしいお店に行くことを断ることも、妻以外の女性と2人だけで行動することを避けることなどなど、世にあっては、大事なことも優先することも違う。そういう態度でいることが「宗教にはまっているやつ」扱いされているのだろうなと、余計なストレスを作ってしまうこともある。
それらもまた、神様が与えてくださっためぐみであることを、むしと感謝したいと思う。