1:12 さて、兄弟たち。私の身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったことを知ってほしいのです。
1:13 私がキリストのゆえに投獄されていることが、親衛隊の全員と、ほかのすべての人たちに明らかになり、
1:14 兄弟たちの大多数は、私が投獄されたことで、主にあって確信を与えられ、恐れることなく、ますます大胆にみことばを語るようになりました。
1:15 人々の中には、ねたみや争いからキリストを宣べ伝える者もいますが、善意からする者もいます。
1:16 ある人たちは、私が福音を弁証するために立てられていることを知り、愛をもってキリストを伝えていますが、
1:17 ほかの人たちは党派心からキリストを宣べ伝えており、純粋な動機からではありません。鎖につながれている私をさらに苦しめるつもりなのです。
1:18 しかし、それが何だというのでしょう。見せかけであれ、真実であれ、あらゆる仕方でキリストが宣べ伝えられているのですから、私はそのことを喜んでいます。そうです。これからも喜ぶでしょう。
1:19 というのは、あなたがたの祈りとイエス・キリストの御霊の支えによって、私が切に期待し望んでいるとおりに、このことが結局は私の救いとなることを知っているからです。
1:20 私の願いは、どんな場合にも恥じることなく、今もいつものように大胆に語り、生きるにしても死ぬにしても、私の身によってキリストがあがめられることです。
1:21 私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です。
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福音伝道のミニストリーに燃えていたことがあった。
自分がそのミニストリーの活動によって救われたというのは後に知ったが、救われて間もなく、喜んではしゃいでいた頃のことだ。
そのミニストリーでは、一週間で何人にどう伝道したかを分かち合う時間があるのだが、もうここは自分がどれだけやったかを自慢するところであり、さすがに「やらなかった」ことを「やった」とは言えないが、内容を盛って話をしたことは正直ある。なぜかと言えば、ライバル伝道者に負けたくなかったからだ。
そのライバルもまた、負けたくない心が強かったと思うし、そういう意味では競技が成立していたと言える。
伝道ってそんなもんか、競争してやるもんなのか、という疑問が湧いていたいた時に、まさに今日のみことばが心に突き刺さったのだった。
パウロがどこまで本心でこのようなことを言っているのかはわからないと思っているが、キリストを伝えているならどんな動機であろうと嬉しい、と言うのだ。
これは聖書解釈ではなく、使徒パウロ自身が語り、聖書に掲載されているものだ。
住居を引っ越したことで、所属教会が変わったため、今はそのミニストリーにも参加していないのだが、伝道に対する思いはありながら、なかなかあの頃のように伝道しまくる、相手がいなければ辻説法するようなことはなくなってしまった。
信仰がなくなってしまったわけではないが、自分の中で起きてくる、伝道することで人間関係がおかしくなるのではないか、というような恐れが先立ってしまうのだ。
それでも、福音を伝えることは神様が喜ばれることであり、イエス様が弟子たちに命じられたことだ。
私はイエス様のフォロワーとして生きたいし、それで何かを失ってしまったりこの世での不利益が起きても別に構わないと思っている。それを理性として持っている。
それが行動になって現れるためには、聖霊の満たしが必要だ。
だから、弟子たちが聖霊に満たされたように、私も満たされたい。
偶然にしてもこちらを読んでくださった方には、是非祈っていただければと思う。